えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
山上湖
さんじょうこ |
|
作品ID | 42748 |
---|---|
著者 | 豊島 与志雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「豊島与志雄著作集 第四巻(小説Ⅳ)」 未来社 1965(昭和40)年6月25日 |
初出 | 「新潮」1949(昭和24)年1月 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2008-03-04 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 23 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
十月の半ばをちょっと過ぎたばかりで、湖水をかこむ彼方の山々の峯には、仄白く見えるほどに雪が降った。翌日からは南の風で少し温く、空晴れて、宵に大きな月がでた。
「まあ、きれいな月……。外に出てみよう。」
誘うともなく、誘わぬともなく、言いすてて、私は外套をまとい、スカーフを首に巻きつけた。
「ちょっと待って。これで大丈夫かな。」
寒くはないかという意味なのだ。シャツの上に湯上りと丹前を重ねただけの平田は、あわてて、ジャケツを着、帯をしめ直し、合のオーバアを肩にひっかけて、私のあとについて来た。
そんなこと、なんでもないことなのだが、今では、私の気にさわるのだ。月夜の湖畔のそぞろ歩き、それも二度と出来るかどうか分らない私達ゆえ、出かける時に、それにふさわしいしっとりした言葉のやりとりが、感情の照応が、あってもよい筈だった。私の方もわるいけれど、平田の方がなおわるい。外に出てみようと言う私へ、ただ犬のようについて来るだけではないか。第一、身なりが見っともない。私はお風呂の後でも、寝るまでは服装をきちんと整えているのに、平田の方は、この旅館に着いたその日から、湯上りと丹前姿で、あぐらをかいて酒を飲んでいる。落着いていると言えばそれまでだが、思いつめているのとは違うようだ。追手が来たら、のこのこ連れ戻されるだろうし、さあこれからすぐに、と私が言ったら、殆んど無関心に、つまり無意味に、一緒に死んでくれるかも知れない。そんなのは、思いつめてるんじゃない。思いつめてるのだったら、積極的に、私を死へ誘う筈だ。
いいえ、私はもう一緒には死なない。その代り、月夜の湖畔の散歩には、連れてってあげる。
停電のあとで電燈がついたような、ぱっと明るい月夜だった。旅館の前は広場で、この山間を走ってるバスの事務所があるが、それはもう閉め切ってあり、旅館は一つだけで他に人家もなく、人の姿は全然見えず、暗い木立の向うに、湖水がきらきら光っていた。
「わりに暖いね。」
丹前の肩からずり落ちそうなオーバアの、胸の釦を一つ平田はかけている。物を考える人の姿じゃない。
私はスカーフの中に深々と、頬まで顔を埋めて、ゆるい斜面を湖水の方へ下っていった。道路からそれて、湖岸の砂地に立った。冷々とした空気が湖上から流れてくる。
平田は煙草を取り出して、私にも一本すすめた。ライターの火が螢の光りほどに淡く見える。その明るさの中で、湖面の漣が白銀色に躍り跳ねている。彼方は茫とかすんで、湖中に突き出てる半島にかかえられて、幾つかの灯がある。湖岸のバス道路を一里ばかり行ったところにある小さな町だ。
町といっても、この湖水の神社を中心にして、宿屋や店屋が数十軒並んでる部落にすぎない。三日前、私達はそこへ行ってみた。私としては、もしこの湖水が死所となるなら、この湖水の神社というものも見ておきたかったの…