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耳と目
みみとめ
作品ID42769
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第七巻」 岩波書店
1961(昭和36)年4月7日
初出「映画評論」1933(昭和8)年5月1日
入力者Cyobirin
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-09-05 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 耳も目も、いずれも二つずつ、われわれの頭の頂上からほぼ同じ距離だけ下がった所に開いている。目のほうは前面に二つ並んでほぼ同じ方向を向いているのに耳のほうは両側にあって、だいたいにおいて反対の方向に向いている。もっとも耳たぶがあるために各方の耳が精確にどちらに向いているかという事はそう簡単に言われないが、しかし、この平凡な事実は考えてみるといろいろなおもしろい意義をもっている。
 二つずつあるのは空間知覚のためであって、二つの間の距離が空間を測量するための基線になるのである。耳と目とが同じ高さにあるのは視覚空間と聴覚空間との連絡、同格化のために便利であろうと思われる。ところが光線伝播は直線的であるので二つの目が同時に対象に向かっていなければならない。従って、二つが前面に並んでいないと不都合である。これに反して音の場合には音波が頭で回折されるから、一つの耳の反対の側から来る音でもその耳に到達する。しかし正面から来る音よりは弱く聞こえるのである。それで音源の方向を知るにはむしろ両耳が頭の反対の側にあるほうが好都合なわけになるのである。
 この事は、トーキーの場合にはそれほど問題にならないようにも思われる。観客はかなりな距離にあって、視角の限定されたスクリーンに対しているから、空間の深さの判断の正確さは始めから断念してかかっている。従って音の出る場所がその音に相当する視像と少しちがった方向と距離とにあってもたいして苦にならない。しかし物を言っている顔の大写しなどの場合には、この耳と目との空間知覚の齟齬が多少は起こるかもしれない。これは少し詳しく実験してみるとおもしろいと思う。
 またたとえば映画の中で一人の男が暗殺者のために思いがけなく射殺されるところがあるとする。突然なピストルの音とともにこの男が倒れる。その音が観客の正面の向こうのほうで響いたと思われるのに、ピストルを持った男がずっと横手のほうから現われて来ると思われるのではちょっと理屈に合わないわけである。しかしこういう場合でも、一方では音の方向知覚というものの本来不確実なために、また一方では劇場の複雑な反響のために、なおその上に、視像の暗示にだまされる錯覚のために、実際はたいした不都合は感じないかもしれない。
 それはとにかく、もしもわれわれが音源の距離方向を判断する能力が非常に鋭敏であったら、トーキーというものはたいへんやっかいな問題に出会うであろうが、そうでないのは幸いである。しかし上記のような耳と目との空間知覚性の差別は、トーキー製作者の一応記憶していてもしかるべき事であろうと思われる。
 耳と目の比較をする時に考えられる著しい差別は、耳が複雑な異種類の音響の複合物をその組成要素に分析する能力をもっているのに、目には視像を分析する能力がないという点にある。たとえば、ジンタ音楽と「いらっしゃいいらっしゃ…

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