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不良少年とキリスト
ふりょうしょうねんとキリスト |
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作品ID | 42840 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 06」 筑摩書房 1998(平成10)年5月22日 |
初出 | 「新潮 第四五巻第七号」1948(昭和23)年7月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2006-12-26 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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もう十日、歯がいたい。右頬に氷をのせ、ズルフォン剤をのんで、ねている。ねていたくないのだが、氷をのせると、ねる以外に仕方がない。ねて本を読む。太宰の本をあらかた読みかえした。
ズルフォン剤を三箱カラにしたが、痛みがとまらない。是非なく、医者へ行った。一向にハカバカしく行かない。
「ハア、たいへん、よろしい。私の申上げることも、ズルフォン剤をのんで、氷嚢をあてる、それだけです。それが何より、よろしい」
こっちは、それだけでは、よろしくないのである。
「今に、治るだろうと思います」
この若い医者は、完璧な言葉を用いる。今に、治るだろうと思います、か。医学は主観的認識の問題であるか、薬物の客観的効果の問題であるか。ともかく、こっちは、歯が痛いのだよ。
原子バクダンで百万人一瞬にたゝきつぶしたって、たった一人の歯の痛みがとまらなきゃ、なにが文明だい。バカヤロー。
女房がズルフォン剤のガラスビンを縦に立てようとして、ガチャリと倒す。音響が、とびあがるほど、ひゞくのである。
「コラ、バカ者!」
「このガラスビンは立てることができるのよ」
先方は、曲芸をたのしんでいるのである。
「オマエサンは、バカだから、キライだよ」
女房の血相が変る。怒り、骨髄に徹したのである。こっちは痛み骨髄に徹している。
グサリと短刀を頬へつきさす。エイとえぐる。気持、よきにあらずや。ノドにグリグリができている。そこが、うずく。耳が痛い。頭のシンも、電気のようにヒリヒリする。
クビをくくれ。悪魔を亡ぼせ。退治せよ。すゝめ。まけるな。戦え。
かの三文々士は、歯痛によって、ついに、クビをくくって死せり。決死の血相、ものすごし。闘志充分なりき。偉大。
ほめて、くれねえだろうな。誰も。
歯が痛い、などゝいうことは、目下、歯が痛い人間以外は誰も同感してくれないのである。人間ボートク! と怒ったって、歯痛に対する不同感が人間ボートクかね。然らば、歯痛ボートク。いゝじゃないですか。歯痛ぐらい。やれやれ。歯は、そんなものでしたか。新発見。
たった一人、銀座出版の升金編輯局長という珍妙な人物が、同情をよせてくれた。
「ウム、安吾さんよ。まさしく、歯は痛いもんじゃよ。歯の病気と生殖器の病気は、同類項の陰鬱じゃ」
うまいことを言う。まったく、陰にこもっている。してみれば、借金も同類項だろう。借金は陰鬱なる病気也。不治の病い也。これを退治せんとするも、人力の及ぶべからず。あゝ、悲し、悲し。
歯痛をこらえて、ニッコリ、笑う。ちっとも、偉くねえや。このバカヤロー。
ああ、歯痛に泣く。蹴とばすぞ。このバカ者。
歯は、何本あるか。これが、問題なんだ。人によって、歯の数が違うものだと思っていたら、そうじゃ、ないんだってね。変なところまで、似せやがるよ。そうまで、しなくったって、いゝじゃないか。だ…