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探偵小説を截る
たんていしょうせつをきる |
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作品ID | 42842 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 06」 筑摩書房 1998(平成10)年5月22日 |
初出 | 「黒猫 第二巻第九号」1948(昭和23)年7月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2007-08-28 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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私は探偵小説をよむと、みんな同じ書き方をしているので、まずウンザリする。洋の東西を問わず、本格推理小説となると、みんな形式が同一である。
先ず第一に名探偵が現れる。この名探偵がいかにも思い入れよろしく、超人的にピタリ/\とおやりになる。すると、対照的にトンマな警部とか、探偵とかゞ現れて、この御両人の角突き合いが小説の半分ぐらい占めているというアンバイである。
私は探偵小説の歴史などには疎いが、私のよんだ範囲では、だいたい、この形式はガボリオーで完成しているようである。その探偵はタパン先生の弟子ルコックでありトンマ探偵は、時になんとか警部であり、時に巴里名題の探偵というグアイである。
ルコック探偵には、商売仇きのボンクラ探偵の登場が絶対に必要なものがあり、それによってルコックの修業時代が表現されているのであるが、その他の亜流の作品には必然性というものはない。いつか形式ができ、その馬鹿の一つ覚えというほかに一切の取り柄がないのである。
ヴァン・ダインとなると、この形式の臭気は、まったく鼻持ちならなくなる。フィロ・ヴァンスなる迷探偵が何かにつけて低脳そのものゝ智者ぶりを発揮する。まったく、こゝまで超人的明察となると、これは低脳と云わざるを得ない。作者の頭の悪るさの証拠である。つまり、智能の限界を知らないのである。
これに配するボンクラ刑事は、マーカムという検事、ヒューズ警部、御ていねいに二人まで登場して、読者には判りきったマヌケぶりを、くりかえし、くりかえす。このバカ問答がヴァン・ダインの探偵小説のほゞ三分の二を占めている。
この低脳ぶり、無能無策の頭の悪さに立腹するどころか、これぞ探偵小説の本道などゝズイキしてお手本にしているのが小栗虫太郎はじめ日本の探偵小説家であるから、みんな三分の二はムダなことを得々と書いていられる。
私が先般、探偵小説の型に合わない、形式も知らずに探偵小説を書くとは怪しからん、という投書があったが、いかに日本人というものが猿智恵で、与えられたものを鵜のみにするしか能がないか、この投書のみならず在来の探偵小説がそれを証明しており、洋学移入可能の智能原始状態は探偵小説をもって第一人者となす。ヴァン・ダインだ、クイーン、カー、クリスチーだ、クロフツだ、フィルポッツだ、シメノンだ、といって、いったい芸術の独創性というものは、どこへ忘れているのやら。
まだしも、他の芸ごと、たとえば、他の文学とか、音楽、絵画には、それぞれ、個性とか独創を尊び、形式やマンネリズムを打破することに主点がおかれているものだ。探偵小説ときてはアベコベで、先人の型に似せることを第一義としている。お手本がなければ、どうにもならず、お手本のクダラナサを疑ることなど毛筋ほどもないのである。
私は本格探偵小説が知識人にうけいれられぬ原因の最大のものは、その形式のマ…