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酒のあとさき
さけのあとさき |
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作品ID | 42852 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 05」 筑摩書房 1998(平成10)年6月20日 |
初出 | 「光 第三巻第四号」1947(昭和22)年4月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 藤原朔也 |
公開 / 更新 | 2008-06-04 / 2016-04-15 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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私は日本酒の味はきらひで、ビールの味もきらひだ。けれども飲むのは酔ひたいからで、酔つ払つて不味が無感覚になるまでは、息を殺して、薬のやうに飲み下してゐるのである。私は身体は大きいけれども胃が弱いので、不味を抑へて飲む日本酒や、ビールは必ず吐いて苦しむが、苦しみながら尚のむ。気持よく飲めるのは高級のコニャックとウヰスキーだけだが、今はもう手にはいらず、飲むよしもない。ジンやウォトカやアブサンでも日本酒よりはいゝ。少量で酔へるものは、味覚にかゝはらず良いのである。
酔ふために飲む酒だから、酔後の行状が言語道断は申すまでもなく、さめれば鬱々として悔恨の臍をかむこと、これはあらゆる酒飲みの通弊で、思ふに、酔つ払つた悦楽の時間よりも醒めて苦痛の時間の方がたしかに長いのであるが、それは人生自体と同じことで、なぜ酒をのむかと云へば、なぜ生きながらへるかと同じことであるらしい。酔ふことはすべて苦痛で、得恋の苦しみは失恋の苦しみと同じもので、女の人と会ひ顔を見てゐるうちはよいけれども、別れるとすぐ苦しくなつて、夜がねむれなかつたりするものである。得恋といふ男女二人同じ状態にあるときは、女の方が生れながらに図太いもので、現実的な性格がよく分るものであり、だから女の酒飲みが少いのかも知れぬ。
女はそのとき十七であつたから、十一年上の私は二十八であつたわけだ。この十七の娘が大変な酒飲みなのである、グラスのウヰスキーを必ずぐいと一息で飲むのである。何杯ぐらゐ飲んだか忘れたが、とにかく無茶な娘で、モナミだつたかどこかでテーブルの上のガラスの花瓶をこはして六円だか請求されると、別のテーブルの花瓶をとりあげてエイッと叩き割つて十二円払つて出てくる娘であつた。しよつちう男と泊つたり、旅行したりしてゐたが処女なので、娘は私に処女ではないと云つて頑強に言ひ張つたけれども、処女であつたと思ふ。日本橋にウヰンザアといふ芸術家相手の洋酒屋ができて、そこの女給であつたが、店内装飾は青山二郎で、牧野信一、小林秀雄、中島健蔵、河上徹太郎、かう顔ぶれを思ひだすと、これは当時の私の文学グループで、春陽堂から「文科」といふ同人雑誌をだしてゐた、結局その同人だけになつてしまふが、そのほか中原中也と知つたのがこの店であつた。直木三十五が来てゐた。あの当時の文士は一城をまもつて虎視眈々、知らない同業者には顔もふりむけないから、誰が来てゐたかあとは知らない。
中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米ぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウ※[#小書き片仮名ヰ、143-1…