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娯楽奉仕の心構へ
ごらくほうしのこころがまえ |
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作品ID | 42882 |
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副題 | ――酔つてクダまく職人が心構へを説くこと―― よっててクダまくしょくにんがこころがまえをとくこと |
著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 05」 筑摩書房 1998(平成10)年6月20日 |
初出 | 「文学界 第一巻第五号」1947(昭和22)年11月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2009-03-09 / 2016-04-15 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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いつぞや「近代文学」の人たちに、君たちの雑誌は肩が凝つて仕様がないが詰碁と詰将棋を載せてくれないかナ、と言つて、平野謙に叱られた。これは一場の冗談だけれども、又、冗談とばかりも限らず、「近代文学」は詰碁、詰将棋でもなくては退屈千万だ。
たとへば、理学、工学、化学、医学、農学、美術、音楽などのそれぞれ最も専門的な純学術雑誌に詰碁や詰将棋が載つたらどうだらう。別に学術雑誌のダラクだなどと言はず、研究室の休養のひとゝきに気の利いたことだと喜んでくれる学者が多いんぢやないかな。研究室に碁盤や将棋盤があつても、探偵小説の数冊が置いてあつても、学者のダラクなどと言ふ者もなからう。本当に仕事をする者には休養が必要で、尊いものだ。
休養、娯楽を悪徳と見る儒学思想は今日も尚日本の家庭を盲目的に支配してをり、よく働き、よく遊べといふやうな分りきつたことすらも、尚一般的な常識ではないのである。休養、娯楽が家庭化されてゐないから、芸術の鑑賞も亦家庭化せられず、芸術の休養、娯楽性といふやうなものも理解せられてをらぬのである。
人間探求、生活探求、そして魂の糧であるといふこと、それも亦たしかに文学の効用のひとつであるけれども、元々小説は思想の解説書ではなく、人の生活を物語ることによつて、読者の心と通じるもので、面白く語ることによつて先づ読者と友達になる、話術も大切で、半面の休養娯楽性といふものを忘れては成り立たない。話術も小にしては個々の表現法であるが、大にしては筋の構成、この話術は文学の戯作性といふもので、作者の思想が高く、人間通の眼光鋭く深く、かりそめにも人生を遊ばず人の悲痛な宿命に就て慟哭の唄声をかなでるものであつても、同時に話術家としての作者は戯作世界にゐるものなのである。
シエクスピアは傑れた人間通であると同時に傑れた戯作者であり、ドストエフスキイは悩み高き思想家であると同時に途方もない戯作者だつた。ストリンドベルヒも同断であり、モリエールの喜劇の面白さによつてモリエールを咎める史家は先づないだらう。
日本文学は自らの思想性が低いから、戯作性とか娯楽性を許容すると自ら尊厳が維持しきれない。日本文学者の多くの人々に戯作性が拒否せられるのはそのせゐだと私は思ふ。思想が深く、苦悩が深かければそれに応じて物語も複雑となり、筋に起伏波瀾がなければ表現しきれなくなるから、益々高度の戯作性、話術の妙を必要とする。日本の文学者は多く思想が貧困であり、魂の苦悩が低いから、戯作性もいらない上に、戯作者を自覚する誇りも持つことができないのである。
私はだいたい日本の綜合雑誌といふものは奇妙なものだと考へてゐる。専門的な知識は専門家にだけあればよろしく、そのためにその方面各々の専門雑誌があればよろしい。専門的な知識を綜合して、それをみんな身につけた人物が出来上つたにしたところが、そんな…