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デカダン文学論
デカダンぶんがくろん
作品ID42901
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 04」 筑摩書房
1998(平成10)年5月22日
初出「新潮 第四三巻第一〇号」1946(昭和21)年10月1日
入力者tatsuki
校正者宮元淳一
公開 / 更新2006-06-26 / 2014-09-18
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 極意だの免許皆伝などといふのは茶とか活花とか忍術とか剣術の話かと思つてゐたら、関孝和の算術などでも斎戒沐浴して血判を捺し自分の子供と二人の弟子以外には伝へないなどとやつてゐる。尤も西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるさうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、曰く言ひ難しとくる。私はタバコが配給になつて生れて始めてキザミを吸つたが、昔の人間だつて三服四服はつゞけさまに吸つた筈で、さすればガン首の大きいパイプを発明するのが当然の筈であるのに、さういふ便利な実質的な進歩発明といふ算段は浮かばずに、タバコは一服吸つてポンと叩くところがよいなどといふフザけた通が生れ育ち、現実に停止して進化が失はれ、その停止を弄んでフザけた通や極意や奥義書が生れて、実質的な進歩、ガン首を大きくしろといふやうな当然な欲求は下品なもの、通ならざる俗なものと考へられてしまふのである。キセルの羅宇は仏印ラオス産の竹、羅宇竹から来た名であるが、キセルは羅宇竹に限るなどと称して通は益々実質を離れて枝葉に走る。フォークをひつくりかへして無理にむつかしく御飯をのせて変てこな手つきで口へ運んで、それが礼儀上品なるものと考へられて疑られもしない奇妙奇天烈な日本であつた。実質的な便利な欲求を下品と見る考へは随所に様々な形でひそんでゐるのである。
 この歪められた妖怪的な日本的思考法の結び目に当る伏魔殿が家庭感情といふ奴で、日本式建築や生活様式に規定された種々雑多な歪みはとにかくとして、平野謙などといふ良く考へる批評家まで、特攻隊は女房があつては出来ないね、などとフザけたことを鵜呑みにして疑ることすらないのである。女房と女と、どこが違ふのだらう。女房と愛する人と、どこに違ひがあるといふのか。誰か愛する人なき者ありや。鐘の音がボーンと鳴つてその余韻の中に千万無量の思ひがこもつてゐたり、その音に耳をすまして二十秒ばかりで浮世の垢を流したり、海苔の裏だか表だかのどつちか側から一方的にあぶらないと味がどうだとか、フザけたことにかゝづらつて何百何千語の註釈をつけたり、果ては奥義書や秘伝を書くのが日本的思考の在り方で、近頃は女房の眉を落させたりオハグロをぬらせることは無くなつたが、刺青と大して異ならないかゝる野蛮な風習でもそれが今日残存して現実の風習であるなら、それを疑るよりも、奥義書を書いて無理矢理に美を見出し、疑る者を俗なる者、野卑にして素朴なる者ときめつけるのが日本であつた。女房のオハグロは無くなつたが、オハグロ的マジナヒは女房の全身、全心、魂の奥底にまで絡みついて生きてをり、それが先づ日本の幽霊の親分で、平野謙のやうに私などよりも考へる時間が余程多いらしい人ですら、人間の姿を諸々の幽霊から本当に絶縁しようといふ大事な根本的な態度を忘れ、多くは枝葉に就て考へる時間が多いのではないか…

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