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戯作者文学論
げさくしゃぶんがくろん
作品ID42913
副題――平野謙へ・手紙に代へて――
――ひらのけんへ・てがみにかえて――
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 04」 筑摩書房
1998(平成10)年5月22日
初出「近代文学 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日
入力者tatsuki
校正者村並秀昭
公開 / 更新2021-02-17 / 2021-01-27
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この日記を発表するに就ては、迷つた。書く意味はあつたが、発表する意味があるかどうか、疑つた。
 この日記を書いた理由は日記の中に語つてあるから重複をさけるが、私が「女体」を書きながら、私の小説がどういふ風につくられて行くかを意識的にしるした日録なのである。私は今迄日記をつけたことがなく、この二十日間ほどの日記の後は再び日記をつけてゐない。私のやうにその日その日でたとこまかせ、気まぐれに、全く無計画に生きてゐる人間は、特別の理由がなければ、とても日記をつける気持にならない。
 私はこの日記をつけながら、たしかに平野君を意識してゐたこともある。平野君は必ず「女体」に就て何かを書き、作者の意図が何物であるかといふやうなことを論ずるだらうと考へた。それに対して私がこの日記を発表し、平野君の推察と私自身の意図するところと、まるで違つてゐるといふやうなことは、然し、どうでもいゝことだ。批評も作品なのだから、独自性の中に意味があるので、事実、私が私自身を知つてゐるかどうか、それすらが大いに疑問なのである。
 だから、私は、この日記が私の「作品」でない意味から、発表するのを疑つたのだが、然し、考へてみると、特に意識せられた日録なので「作品」でないとも限らない。
 そして私がこの日録を発表するのは、批評家の忖度する作家の意図に対して、作家の側から挑戦するといふやうな意味ではないので、挑戦は別の場所で、別の方法でやります。
 平野君からの注文は「戯作者文学論」といふので、私は常に自ら戯作者を以て任じてゐるので、私にとつて小説がなぜ戯作であるのか、平野君はそれを知りたかつたのではないかと思ふ。
 私が自ら戯作者と称する戯作者は私自身のみの言葉であつて、いはゆる戯作者とはいくらか意味が違ふかも知れない。然し、さう、大して違はない。私はたゞの戯作者でもかまはない。私はたゞの戯作者、物語作者にすぎないのだ。たゞ、その戯作に私の生存が賭けられてゐるだけのことで、さういふ賭の上で、私は戯作してゐるだけなのだ。
 生存を賭ける、といふことも、別段、大したことではない。たゞ、生きてゐるだけだ。それだけのことだ。私はそれ以上の説明を好まない。
 それで私は、私の小説がどんな風にして出来上るか、事実をお目にかける方が簡単だと思つた。ところが、私は、とても厭だつたのは、この「女体」四十二枚に二十日もかゝつて、厭に馬鹿々々しく苦吟してゐるといふことだつた。それはこの「女体」が長篇小説の書きだしなので、この長篇小説は「恋を探して」といふ題にしようと思つてをり、まだ書きあげてはゐないのだが、長篇の書きだしといふものには、一応、全部の見透しや計算のやうなものが、多少は必要なのである。伏線のやうなものが必要なのである。
 そんなものゝ全然必要でないもの、たゞ書くことによつて発展して行く場合が多く、私は元来さ…

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