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通俗と変貌と
つうぞくとへんぼうと |
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作品ID | 42914 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 04」 筑摩書房 1998(平成10)年5月22日 |
初出 | 「書評 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 宮元淳一 |
公開 / 更新 | 2006-07-05 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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文学といふものは政治と違つて、こと人性に即したものであるから、戦争に負けたから変らなければならないといふ性質のものではない。文学の戦犯などゝいふことからして妙なことで、尤も中には暴力に訴へて言論に圧迫を加へた右翼主義者があつたが、この連中は論外だ。時局便乗といふことは決して犯罪ではなく、つまり、通俗といふことなので、たゞ、それだけの話だ。いつの世にも時流便乗作家はあるもので、それを通俗作家と称する。決して犯罪者ではない。
ところが、今まで日本の文壇では、時流便乗家が、通俗作家としてゞなく、純粋な文学として通用してゐた。この根本的な誤りをさとらずに、時局便乗作家を戦犯作家などゝ称するのは、つまり、さういふ御本人が時局の便乗家であり、通俗作家、通俗批評家に外ならぬことを証してゐるにすぎないのである。
本当の文学は戦争に負けたから変らなければならない性質のものではない。さうかといつて、だから、旧態依然として戦争のさなかに「踊子」だの「来訪者」だの「問はず語り」を書いてゐた荷風が偉いといふことにもならない。人間が生きてゐるのは現実の中に生きてゐることなので、常に現実に重なりあひ見究めて生きてゐる故、作家自体の足跡がおのづから時代の風俗を語つてゐるだけのこと、戦争のさなかに戦争を見つめず、「踊子」や「来訪者」や「問はず語り」を書いてゐた荷風は、要するに、小説の趣味家であつて、文学者ではなかつたのだ。
作家はいくらでも変貌するがよい。生長は常に変化だ。けれども外部だけの変貌は真実の変貌ではない。かゝる外部の変貌を、要するに便乗的な変貌と称するのである。
だが、いつたいこの戦争で、真実、内部からの変貌をとげた作家があつたであらうか。私の知る限りでは、たゞ一人、小林秀雄があるだけだ。彼は別段、戦争に協力するやうな一行の煽動的な文章も書いてはゐない。たゞ彼は、戦争の跫音と共に、日本的な諦観へぐんぐん落ちこみ、沈んで行つた。人々は、或ひは小林自身も、これはたゞ、彼の自然の歩みであつたと思つてゐるかも知れぬ。私はさうは思はない。戦争がなければ、彼はかうはならなかつた。かういふものになつたにしても、かういふ形にはならなかつたに相違ない。要するに小林の魂は生長しつゝあつたから、戦争の影響を受けて生長した。彼はたぶん、真実、愛国者であつたであらう。彼は戦争には協力しなかつたが、祖国の宿命には身を以て魂を以て協力した。そして彼は知らざる戦争の、否、殉国の愛情の影響によつて、いつかずる/\と日本的諦観の底へ沈みこんで行つたのだ。
愛国の情熱は羞ぢ悲しむ必要は毫もない。小林は戦争に協力せず、たゞ、祖国の悲痛なる宿命に協力したのである。
真実己れを愛する人は隣人を愛し、祖国を愛し、人類を愛し、人間を愛するであらう。なんとまあ、日本の作家は戦争と共に変貌しなかつたことよ。彼等はそろ…