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明日
あす
作品ID42935
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅
文字遣い新字新仮名
底本 「魯迅全集」 改造社
1932(昭和7)年11月18日
入力者京都大学電子テクスト研究会入力班
校正者京都大学電子テクスト研究会校正班
公開 / 更新2004-04-01 / 2014-09-18
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「声がしない。――小さいのがどうかしたんだな」
 赤鼻の老拱は老酒の碗を手に取って、そういいながら顔を隣の方に向けて唇を尖らせた。
 藍皮阿五は酒碗を下に置き、平手で老拱の脊骨をいやというほどドヤシつけ、何か意味ありげのことをがやがや喋舌って
「手前は、手前は、……また何か想い出してやがる……」
 片田舎の魯鎮はまだなかなか昔風で、どこでも大概七時前に門を閉めて寝るのだが、夜の夜中に睡らぬ家が二軒あった。一つは咸亨酒店で、四五人の飲友達が櫃台を囲んで飲みつづけ、一杯機嫌の大はしゃぎ。も一つはその隣の單四嫂子で、彼女は前の年から後家になり、誰にも手頼らず自分の手一つで綿糸を紡ぎ出し、自活しながら三つになる子を養っている。だから遅くまで起きてるわけだ。
 この四五日糸を紡ぐ音がぱったり途絶えたが、やはり夜更になっても睡らぬのはこの二軒だけだ。だから單四嫂子の家に声がすれば、老拱等のみが聴きつけ、声がしなくとも老拱等のみが聴きつけるのだ。
 老拱は叩かれたのが無上に嬉しいと見え、酒を一口がぶりと飲んで小唄を細々と唱いはじめた。
 一方單四嫂子は寶兒を抱えて寝台の端に坐していた。地上には糸車が静かに立っていた。暗く沈んだ灯火の下に寶兒の顔を照してみると、桃のような色の中に一点の青味を見た。「おみ籤を引いてみた。願掛もしてみた。薬も飲ませてみた」と彼女は思いまわした。
「それにまだ一向利き目が見えないのは、どうしたもんだろう。あの何小仙の処へ行って見せるより外はない。しかしこの児の病気も昼は軽く夜は重いのかもしれない。あすになってお日様が出たら、熱が引いて息づかいも少しは楽になるのだろう。これは病人としていつもありがちのことだ」
 單四嫂子は感じの鈍い女の一人だったから、この「しかし」という字の恐ろしさを知らない。いろんな悪いことが、これがあるために好くなり変ることがある。いろんな好いことがこれがあるためにかえって悪くなり変ることがある。夏の夜は短い。老拱等が面白そうに歌を唱い終ると、まもなく東が白み初め、そうしてまたしばらくたつと白かね色の曙の光が窓の隙間から射し込んだ。
 單四嫂子が夜明けを待つのはこの際他人のような楽なものではなかった。何てまだるっこいことだろう。寶兒の一息はほとんど一年も経つような長さで、現在あたりがハッキリして、天の明るさは灯火を圧倒し、寶兒の小鼻を見ると、開いたり窄んだりして只事でないことがよく解る。
「おや、どうしたら好かろう。何小仙の処で見てもらおう。それより外に道がない」
 彼女は感じの鈍い女ではあるが心の中に決断があった。そこで身を起して銭箱の中から毎日節約して貯め込んだ十三枚の小銀貨と百八十の銅貨をさらけ出し、皆ひっくるめて衣套の中に押込み、戸締をして寶兒を抱えて何家の方へと一散に走った。
 早朝ではあるが何家にはもう四人の病人が…

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