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孔乙己
こういっき
作品ID42938
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅
文字遣い新字新仮名
底本 「魯迅全集」 改造社
1932(昭和7)年11月18日
入力者京都大学電子テクスト研究会入力班
校正者京都大学電子テクスト研究会校正班
公開 / 更新2005-06-14 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 魯鎮の酒場の構えは他所と違っていずれも皆、曲尺形の大櫃台を往来へ向けて据え、櫃台の内側には絶えず湯を沸かしておき、燗酒がすぐでも間に合うようになっている。仕事をする人達は正午の休みや夕方の手終いにいちいち四文銭を出しては茶碗酒を一杯買い、櫃台に靠れて熱燗の立飲みをする。――これは二十年前のことで、今では値段が上って一碗十文になった。――もしモウ一文出しても差支えなければ、筍の塩漬や茴香豆の皿盛を取ることが出来る。もし果して十何文かを足し前すれば、葷さの方の皿盛りが取れるんだが、こういうお客様は大抵袢天著の方だからなかなかそんな贅沢はしない。中には身装のぞろりとした者などあって、店に入るとすぐに隣接した別席に著き、酒を命じ菜を命じ、ちびりちびりと飲んでる者もある。
 わたしは十二の歳から村の入口の咸享酒店の小僧になった。番頭さんの被仰るには、こいつは、見掛けが野呂間だから上客の側へは出せない。店先の仕事をさせよう。店先の袢天著は取付き易いが、わけのわからぬことをくどくど喋舌り、漆濃く絡みつく奴が少くない。彼等は人の手許をじろりと見たがる癖がある。老酒を甕の中から汲み出すのを見て、徳利の底に水が残っていやしないか否かを見て、徳利を熱湯の中に入れるところまで見届けて、そこでようやく安心する。こういう厳しい監視の下には、水を交ぜることなんかとても出来るものではない。だから二三日経つと番頭さんは「こいつは役に立たない」と言ったが、幸いに周旋人の顔が利き、断りかねたものと見え、改めてお燗番のような詰らぬ仕事を受持たされることになった。わたしはそれから日がな一日櫃台の内側でこの仕事だけを勤めていたので、縮尻を仕出かすことのないだけ、それだけで単調で詰らなかった。番頭さんはいつも仏頂面していなさるし、お客様は一向構ってくれないし、これじゃいくらわたしだって活溌になり得るはずがない。ただ孔乙己が店に来た時だけ初めて笑声を出すことが出来たので、だから今だにこの人を覚えている。
 孔乙己は立飲みの方でありながら長衫を著た唯一の人であった。彼は身の長けがはなはだ高く、顔色が青白く、皺の間にいつも傷痕が交っていて胡麻塩鬚が蓬々と生えていた。著物は汚れ腐って、ツギハギもせず洗濯もせず、十何年も一つものでおっとおしているようだ。彼の言葉は全部が漢文で、口から出るのは「之乎者也」ばかりだから、人が聞けば解るような解らぬような変なもので、その姓氏が孔というのみで名前はよく知られなかったが、ある人が紅紙の上に「上大人孔乙己」と書いてから、これもまた解るような解らぬようなあいまいの中に彼のために一つの確たる仇名が出来て、孔乙己と呼ばれるようになった。
 孔乙己が店に来ると、そこにいる飲手は皆笑い出した。
「孔乙己、お前の顔にまた一つ傷が殖えたね」
 とその中の一人が言った。孔は答えず九文の大銭…

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