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作品ID | 43022 |
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著者 | 魯迅 Ⓦ |
翻訳者 | 井上 紅梅 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「魯迅全集」 改造社 1932(昭和7)年11月18日 |
入力者 | 京都大学電子テクスト研究会入力班 |
校正者 | 京都大学電子テクスト研究会校正班 |
公開 / 更新 | 2009-08-22 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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河沿いの地面から、太陽はその透きとおった黄いろい光線をだんだんに引上げて行った。河端の烏臼木の葉はからからになって、ようやく喘ぎを持ち堪えた。いくつかの藪蚊は下の方に舞いさがって、ぶんぶんと呻った。農家の煙筒のけむりは刻一刻と細くなった。女子供は門口の空地に水を撒いて、小さな卓子と低い腰掛をそこに置いた。誰にもわかる。もう晩飯の時刻が来たのだ。
老人と男たちは腰掛の上にすわって無駄話をしながら大きな芭蕉団扇をゆらめかした。子供等は飛ぶが如くに馳け出した。ある者は烏臼木の下にしゃがんで賭けをして石コロを投げた。女は真黒な干葉と松花のような黄いろい御飯を持ち出した。熱気がもやもやと立上った。
文人の酒船は河中を通った。文豪は岸を眺め大に興じた。「苦労も知らず、心配も知らず、これこそ真に田家の楽しみじゃ!」
けれど文豪のこの話はいささか事実に背反している。彼は九斤老太の話をききのがしていたからだ。この時九斤老太は不平の真ッ最中であった。「わしは命あって七十九のきょうまで生き延びたが、あまり長生きをし過ぎた。わしは世帯くずしのこのざまを見たくはない。いっそ死んだ方が増しじゃ。もうじき御飯だというのに、また煎り豆を出して食べおるわい。これじゃ子供に食いつぶされてしまうわ」
彼の孫娘の六斤はちょうど、一掴みの煎り豆を握って真正面から馳け出して来たが、この様子を見て、すぐに河べりの方へ飛んで行き、烏臼木の後ろに蔵れて、小さな蝶々とんぼの頭を伸ばして「死にそこないの糞婆」と囃し立てた。
九斤老太は年の割に耳が敏かった。けれど今の子供の言葉はつい聴きのがした。そうしてなお独言を続けた。「ほんとにこんな風では代々落ち目になるばかりだ」
この村には特別の習慣があって、子供が出来ると秤に掛け、斤目によって名前を附ける。九斤老太は五十の年を祝ってから、だんだんと不平家になった。彼女はいつも若い時の事をはなして、天気はこんなに熱くはなかった、豆はこんなに硬くはなかった、と、なんでも皆、今の世の中が悪くて昔の世の中がいいのだ。まして六斤は彼の祖父の九斤に比べると三斤足りない。彼の父の七斤に比べると一斤足りない。これこそ本当に正真正銘の事実だから彼女は、「代々落ち目になるばかりだ」と固く言い張るのである。
七斤ねえさんというのは、彼女の倅の[#挿絵]である。その時七斤ねえさんは飯籃をさげて卓の側に行き、卓上に飯籃を投げ卸してプリプリ腹を立てた。「おばあさん、またそんなことを言っているよ。内の六斤が生れた時には六斤五両ありましたよ。内の秤は自家用の秤ですから掛目があらくなっているので、十八両が一斤です。もし十六両秤をつかえば六斤は七斤余りになります。わたしはそう思うの。曾祖父や祖父はきっと十四両秤をつかったんですよ。普通の秤に掛ければ、せいぜい九斤か八斤くらいのものです」…