えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
![]() かぜはかせ |
|
作品ID | 43024 |
---|---|
著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 01」 筑摩書房 1999(平成11)年5月20日 |
初出 | 「青い馬 第二号」岩波書店、1931(昭和6)年6月1日 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2008-05-14 / 2016-04-04 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
諸君は、東京市某区某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであらう乎? 御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存知であらうか? 御存知ない。それは大変残念である。では偉大なる風博士が自殺したことも御存じないであらうか? ない。嗚乎。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体は杳として紛失したことも御存知ないであらうか? ない。嗟乎。では諸君は僕が其筋の嫌疑のために並々ならぬ困難を感じてゐることも御存知ないのであらうか? 於戯。では諸君は僕が偉大なる風博士の愛弟子であつたことも御存じあるまい。しかし警察は知つてゐたのである。そして其筋の計算に由れば、偉大なる風博士は僕と共謀のうへ遺書を捏造して自殺を装ひ、かくてかの憎むべき蛸博士の名誉毀損をたくらんだに相違あるまいと睨んだのである。諸君、これは明らかに誤解である。何となれば偉大なる風博士は自殺したからである。果して自殺した乎? 然り、偉大なる風博士は紛失したのである。諸君は軽率に真理を疑つていいのであらうか? なぜならそれは、諸君の生涯に様々な不運を齎らすに相違ないからである。真理は信ぜらるべき性質のものであるから、諸君は偉大なる風博士の死を信じなければならない。そして諸君は、かの憎むべき蛸博士の――あ、諸君はかの憎むべき蛸博士を御存知であらうか? 御存じない。噫吁、それは大変残念である。では諸君は、まづ悲痛なる風博士の遺書を一読しなければなるまい。
風博士の遺書
諸君、彼は禿頭である。然り、彼は禿頭である。禿頭以外の何物でも、断じてこれある筈はない。彼は鬘を以て之の隠蔽をなしおるのである。ああこれ実に何たる滑稽! 然り何たる滑稽である。ああ何たる滑稽である。かりに諸君、一撃を加へて彼の毛髪を強奪せりと想像し給へ。突如諸君は気絶せんとするのである。而して諸君は気絶以外の何物にも遭遇することは不可能である。即ち諸君は、猥褻名状すべからざる無毛赤色の突起体に深く心魄を打たるるであらう。異様なる臭気は諸氏の余生に消えざる歎きを与へるに相違ない。忌憚なく言へば、彼こそ憎むべき蛸である、人間の仮面を被り、内にあらゆる悪計を蔵すところの蛸は即ち彼に外ならぬのである。
諸君、余を指して誣告の誹を止め給へ。何となれば、真理に誓つて彼は禿頭である。尚疑はんとせば諸君よ、巴里府モンマルトル Bis 三番地、Perruquier ショオブ氏に訊き給へ。今を距ること四十八年前のことなり、二人の日本人留学生によつて鬘の購はれたることを記憶せざるや。一人は禿頭にして肥満すること豚児の如く愚眛の相を漂はし、その友人は黒髪明眸の美青年なりき、と。黒髪明眸なる友人こそ即ち余である。見給へ諸君、ここに至つて彼は果然四十八年以前より禿げてゐたのである。於戯実に慨嘆の至に堪へんではない乎! 高尚なること…