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余は大衆作家にあらず
よはたいしゅうさっかにあらず
作品ID43063
著者中里 介山
文字遣い新字新仮名
底本 「中里介山全集第二十巻」 筑摩書房
1972(昭和47)年7月30日
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-06-29 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     芸術とは何ぞや

 大衆という文字はいつ頃はじまった、いつ頃誰によって称え出されたものか知れないが、少くもここ十年以前には大衆文学なんぞというが如き文字は文学史にも新聞紙上にも見えなかったものである。
 そこで、この十年以内に多分誰れかによって称え出されたものと思うが、それは誰れが何時称え出したかということは分らないが、他から命名されたものでなく、彼等文筆者流のグループの間から生み出されたものに相違ないと思う、今では、大衆文学なるものが、かなり一般的になって、そうして文学史上でもこれが為に幾ページかの線を劃さねばならぬほどになった、一般的にももう大衆文芸大衆文芸とわけもなく口の端にのぼせられるようになってしまった。
 ところで、この大衆文学とか大衆文芸とかいう大衆の文字は一体何を意味するのであろうか、それがさっぱりわかっていない、大衆といえば仏教の方では古来一つの熟字になっていて一つの寺院の中の坊さん全体という意味に使われているが、しかし昔の漢籍の中にも大衆という文字が使われていないこともないが、今日いう処の大衆という意味はそういう意味ではなく、多分大多数という意味に使われているらしい、そこでその下へ文学という文字をくっつけて見ると、所謂大衆文芸というものは大多数文芸というような意味になるのであると思うが、さてここでまた問題なのは大多数をどうしようという意味の文芸なのか、大多数に読んで貰うという意味のものか大多数に読まれるという意味のものか、また大多数に調子を卸ろして大多数に媚びて見せてやろうというのか、大多数を導いて向上せしめようというつもりか、その辺甚だ曖昧千万である。
 曖昧千万なのはそれのみではない、一体大衆文芸という、つまり大多数文芸というものがありとすれば、一方に何か少数文芸というようなものもなければなるまい、そうでなければ特に大衆などと銘をうつ必要はあるまい、そこで彼等に云わせると大衆文芸に対して少数文芸とは云わないが、別に純文芸とか、純文学とかいうものがあるのらしい、一方に純文芸なるものがあるから、それと対立差別する為に大衆文芸なる名称が与えられたのだということに彼等の分類と建前が出来上っているようである、同じ芸術のうちでも、美術の方では特に声を大にして大衆美術だの純正美術だのという事を決して云わないが、日本の文芸だけがムキになってそれを強調している。
 さて、そうなって見ると純文芸というのは一体何ものなのだ、大衆文芸とは何だ、これの定義から聞かなければなるまいが、分類はし強調はしているけれども定義としてはほとんど何物も無いのだ、ある一派の文士連が、そういう名と分類を都合上こしらえて、それを圧迫的に世間に受取らせようとする、人のいい世間は面食らいながら、それを押しいただいているという現状なのである。
 しかし、折々はどうも、それだけ…

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