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大衆維新史読本
たいしゅういしんしどくほん |
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作品ID | 43073 |
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副題 | 07 池田屋襲撃 07 いけだやしゅうげき |
著者 | 菊池 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「菊池寛全集 第十九巻」 高松市菊池寛記念館、文藝春秋 1995(平成7)年6月15日 |
初出 | 「オール讀物」1937(昭和12)年8月 |
入力者 | 大久保ゆう |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2006-08-11 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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新撰組結成
新撰組の母胎とも云ふべき、幕府が新に徴募した浪士団が家茂将軍警護の名目で、江戸を出発したのは、文久三年の二月八日であつた。
総勢凡そ二百四十名、二十三日に京都郊外壬生に着いたがこれを新徴組と云ふ。隊長格は庄内の清河八郎で、丈のすらりとした面長の好男子、眼光鋭く人を射る男だつたと云ふ。
幕府は初め、浪士の人員を五十名位といふ方針であつた。しかし、実際は、風雲を望んでゐた天下の浪士達が、旗本位にはなれると云ふ肚で、続々集つてきた。甲州の侠客祐天仙之助が、仔分二十名を引き連れて、加はり、すぐに五番隊の伍長として採用された事などを見ても、大体この浪士団の正体が判る。
これが、京都に止ること二十日ばかりで分裂し、芹沢、近藤等十三人が清河に反き、宿舎八木源之丞の邸前へ「壬生村浪士屯所」の看板を出したのが、所謂新撰組の濫觴である。
隊員永倉新八こと、杉村義衛翁(大正四年まで存命)の語り誌すところに依ると、総勢十三名の新撰組も、初めはひどく貧乏だつた。三月に隊が出来て、五月になると云ふのに、まだ綿入れを着てゐる者が多かつた。いろ/\考へた末、芹澤が真先に立つて、八名の浪士がわざ/\大坂まで行き、鴻池を脅して二百両借りて戻つた。体のいゝ暴力団だ。
これで麻の羽織に紋付の単衣、小倉の袴を新調して、初めて江戸以来の着物を脱いだわけである。しかもその羽織たるや大変なもので、浅黄地の袖を、忠臣蔵の義士の様に、だんだら染めにした。
これが当時の新撰組の制服になり、後に池田屋襲撃の時も、隊員一同この羽織を着て、奮戦したのである。
新撰組結成六ヶ月で、近藤勇、土方歳三は、その隊長芹沢鴨を、その妾宅に襲つて斬つた。
芹沢は水戸の郷士で、本名を下村継次と云ひ、水戸天狗党の生き残りである。天狗党に居た時は、潮来の宿で、気に食はぬ事があつて、部下三名を並べて首を斬つたり、鹿島神宮へ参詣して、拝殿の太鼓が大き過ぎて目障りだと云つて、これを鉄扇で叩き破つたと云ふ程の乱暴者であつた。
芹沢亡き後の新撰組は、当然近藤、土方の天下で、幕府の後押しもあり、京都守護職、松平容保の信頼もあり、隊の勢は日ならずして隆々として揚り、京洛に劃策する勤皇の志士にとつて、陰然たる一大敵国を成すに到つた。
近藤勇
新撰組隊長、近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭したのは偉い、と云ふ評がせい/″\である。
しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽してゐないし、彼の為にも気の毒である。
近藤の刑死は、慶応四年四月二十五日…