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学生と読書
がくせいとどくしょ
作品ID43132
副題――いかに書を読むべきか――
――いかにしょをよむべきか――
著者倉田 百三
文字遣い新字新仮名
底本 「青春をいかに生きるか」 角川文庫、角川書店
1953(昭和28)年9月30日
入力者ゆうき
校正者noriko saito
公開 / 更新2005-08-10 / 2014-09-18
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一 書とは何か

 書物は他人の労作であり、贈り物である。他人の精神生活の、あるいは物的の研究の報告である。高くは聖書のように、自分の体験した人間のたましいの深部をあまねく人類に宣伝的に感染させようとしたものから、哲学的の思索、科学的の研究、芸文的の制作、厚生実地上の試験から、近くは旅行記や、現地報告の類にいたるまで、ことごとく他人の心身の労作にならぬものはない。そしてそのような他人の労作の背後には人間共存の意識が横たわっているのであり、著者たちはその共生の意識から書を共存者へと贈ったものである。
 したがって、書を読むとはかような共存感からの他人の贈る物を受けることを意味する。
 人間共存のシンパシィと、先人の遺産ならびに同時代者の寄与とに対する敬意と感謝の心とをもって書物は読まるべきである。たとい孤独や、呪詛や、非難的の文字の書に対するときにも、これらの著者がこれを公にした以上は、共存者への「訴えの心」が潜在していることを洞察して、ゼネラスな態度で、その意をくみとろうと努むべきである。
 人間は宿命的に利己的であると説くショウペンハウァーや、万人が万人に対して敵対的であるというホップスの論の背後には、やはり人間関係のより美しい状態への希求と、そして諷刺の形をとった「訴え」とがあるのである。
 その意味において書物とは、人間と人間との心の橋梁であり、人間共働の記念塔である。
 読書の根本原理が暖かき敬虔でなくてはならぬのはこのためである。

     二 生、労作そして自他

 書物は他人の生、労作の記録、贈り物である。それは共存者のものではあっても、自分のものではない。自分の生、労作は厳として別になければならぬ。書物にあまりに依頼し、書物が何ものでも与えてくれ、書物からすべてを学び得ると考えるような没我主義があってはならない。実際研究することは読書することであると考えてるかのように見える思想家や、学者や学生は今日少なくないのである。明治以来今日にいたるまで、一般的にいって、この傾向は支配的である。ようやく昨今この傾向からの脱却が獲得されはじめたくらいのものである。
 これは明治維新以来の欧化趨勢の一般的な時潮の中にあったものであり、自覚的には、思想的・文化的水準の低かった日本の学者や、思想家としてはやむをえない状態でもあったのである。
 けれどもいつまでもそうあるべきではなく、人生、思想、芸文、学問というものの本質がそれを許さない。ヨーロッパの誰某はかくいっているという引用の豊富が学や、思想を権威づける第一のものである習慣は改正されなければならぬのである。
 この習慣の背後には、一般に、書物至上主義でないまでも、過度の書物依頼主義が横たわっている。この習慣は信じられぬほど安易への誘惑を導くものであり、もはや独立して思索したり、研究したりする労作…

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