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あね
作品ID4316
著者素木 しづ
文字遣い新字旧仮名
底本 「素木しづ作品集」 札幌・北書房
1970(昭和45)年6月15日
初出不明
入力者素樹文生
校正者柳澤敦子
公開 / 更新2001-12-14 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 小さなモーパッサンの短篇集を袂に入れて英語の先生からの帰り、くれてゆく春の石垣のほとりを歩きながら辰子はおかしくってならなかった。
 今日ならって来た所の、フランチェスカといふわけのわからない女が、“What does in[#「in」はママ]matter to me ?”と、“Not at all”以外に、なに事もいはず、常に怒ってゐるのか、真面目になってゐるのか、わからないやうな態度と表情をしてゐるのが、をかしくってならなかった。
 そして彼女が嫂の態度に対する不満と自分をあはれむかなしさとが、すっかりそのおかしさのなかに入ってしまった。
 彼女は、まだかつて嫂を思ふ心におかしさを思ったことが一度もなかった。
「フランチェスカは、家の嫂さんとおんなじだわ、『結構です』と、『どういたしまして』、以外になんにも云はないんだもの。そしていつも、おかしいことも、かなしいことも、面白いこともないやうに、むっすりと黙ってゐるんだから。」彼女は、そう考へて、おかしくってならなかった。そして、辰子は、顔にまでそのおかしさを見せながら、何の気がゝりも心配もなく、家の玄関まで来てしまった。
 彼女は、手をかけて玄関をガラッと開けた。そして、その音と同時に彼女はすっかり真面目になってしまった。敷石を静かに歩いて草履を、片すみにそろへてぬいだ。
 嫂の部屋は、玄関の側にあった。辰子は、その部屋の襖の前に行って『只今』と手をついた。
『おかへりなさい。』
 といつものやうに、部屋のなかゝら声がした。その声は、何等人の情にはかゝはりのない、木を折ったやうな、殺風景な音であった。辰子の心はすぐ淡い恐怖と不安とを抱いた。そして廊下をつたはって自分の部屋に行った。
 辰子は自分の心が嫂のことに対して、かなしむ時、必ず学校時代のことを思ひ出した。
 辰子が、まだ女学校に居たころ、嫂はまだ彼女の家に来てなかった。そして新学期のはじまるころ、嫂のことをひそかに知り、またその嫂が、彼女の学校の先生になることを聞いたのであった。辰子はそれを聞いた翌日友だちと廊下で顔を合はせた刹那、ふと思ひがけない嬉しいことを、自分が知ってるやうな気がした。それで、彼女は驚いたやうに、瞳を輝かして微笑した。
『あのね。』辰子は、思はずよりそって云った、けれども、ついなんでもないことを云ってしまった。
『音楽室の方に行かなくなって。』
 友だちは、なんの気もなしに素直に、彼女によりそったまゝ、すぐ音楽室の方に歩き出したのであった。それで、彼女は一所に歩き出したが、彼女の頭のなかには、夕聞いたうれしいことが、不安に踊り初めてゐたのだ。
 そして、彼女はいつか草履を引づりながら音楽室の前を、通りこした。朝早いので人もない廊下に、低いオルガンの音が、閉された扉のなかゝら流れて来てた。彼女は、いつものやうに爪先を見つめて歩…

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