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小さな山羊の記録
ちいさなやぎのきろく
作品ID43169
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集 08」 筑摩書房
1998(平成10)年9月20日
初出「作品 第四号」1949(昭和24)年10月25日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2009-04-03 / 2014-09-21
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は若い頃から、衰頽の期間にいつも洟汁が流れて悩む習慣があった。青洟ではなく、透明な粘液的なものであった。だから蓄膿症だと思ったことはない。然し、ねていると胃に流れこみ、起きていると、むやみに洟をかみつゞけなければならない。胃へ流れこむまゝにすると、忽ち吐き気を催し、終日吐き気に苦しんで、思考する時間もなく、仕事に注意を集中し持続するということが全く不可能となるのであった。
 私は元来、甚しく鼻カタルを起し易いタチで、鼻が乾いた時にはテキメンにやられるのが習慣であるから、年中、四半分ぐらいずつ風邪気味に、自然の天恵によって鼻がぬれているような体質なのではないかと思っていた。そのぬれ方のひどい時期に吐き気を催すのみで、それだけのことだろうと、長い年月一人ぎめにしていたのである。
 去年の八月から、又、これがひどくなった。その時も、まだ、私は、これを蓄膿症だとすらも思わない。私は去年の夏は、すぐ近い矢口の渡しへボートをこぎ、泳ぎに行った。そのために、特別洟汁がでるのだろうと思い、まれに泳ぐからいけないので、泳ぎに馴れゝば却って良くなろうかと考え、体力が疲労していたにも拘らず、強いて水泳ぎにふけった。すると、洟汁はもう決定的なものとなり、八月以来、私は吐き気に苦しみ、思考に注意力を集中持続することが出来なくなった。つまり、仕事ができなくなったのである。
 然し、これを明確に自覚したのは去年の八月であるが、やゝ軽度の症状としては、去年の一月頃から、すでにそうであったかも知れない。
 去年の八月からの私は、吐き気と闘うためのひどい労苦がつゞいた。先ず思考力を集中し持続するために、多量に覚醒剤を服用する必要があり、しかも、その効果は少く、たゞ目が冴えて眠られないという結果をもたらすばかりである。たゞさえ吐き気に苦しみつゞけているのだから、眠るためにアルコールを用いることが難儀となり、いきおい催眠薬の使用が多くなった。その頃から、アドルムを十錠ずつ用いるようになったのである。
 このような肉体的な条件で、各社から殺到する切り売り的な註文に応じることは不可能であり、馬鹿々々しいと思ったから、それらの全部を拒絶することにして、かねて腹案の長篇小説に没頭することにした。表面の状況はそうであるが、今にして思えば、精神病的徴候が、すでにハッキリ現れていたのである。つまり、厭人癖である。そして、一種の被害妄想である。ちょッとした思考力の集中持続にすら苦心サンタンしつゝある自分に対して、営利的なつまらぬ仕事を持ちかけてくる人間への反感、病的な反感であった。私はその時以来、注文を拒絶したのみでなく、一切の面会も拒絶した。そして、軽い幻聴が現れはじめたのは、その頃からであった。それは、極めて軽い幻聴で、あるリズミカルな音、単調な、たゞ、遠近のある音の反復、それだけであった。又、いちじるし…

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