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“歌笑”文化
“かしょう”ぶんか
作品ID43193
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集 09」 筑摩書房
1998(平成10)年10月20日
初出「中央公論 第六五年第八号」1950(昭和25)年8月1日発行
入力者tatsuki
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2006-05-17 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 歌笑のような男、落語の伝統の型を破った人物は、私の短い半生でも、さきに金語楼、また同じころ、小三治(今、別の名であるが忘れた)などというのがいた。金語楼は兵隊落語、小三治は源平盛衰記など新しくよんだのである。私がはじめて彼らをきいたのは中学生のころで、彼らは私とほぼ同年配、いくらか年長の程度ではないかと思うが、今の歌笑にくらべると、これほどの時代的な関心はよばなかったようだ。彼らの話術を比較してみても、金語楼よりは、歌笑の方に、あくどさがいくらか少いし、時代への関心もいくらか深い。金語楼は若い時からハゲ頭の自嘲を売り、歌笑は醜男を売る。金語楼のハゲ頭はウワッ面なものだが、醜男は歌笑の落語の骨格をなしており、それがないと、歌笑の落語が生れなかったぐらい本質的なところにつながっていたようだ。
 金語楼と歌笑をくらべると、私は躊躇なく歌笑の方に軍扇をあげるが、歌笑は金語楼程度に未来があったかどうかは疑わしい。歌笑は映画に転向して成功することが、ちょッと考えられないからであるし、二人ながら、落語の世界では新型であっても、それほどの時代感覚があるわけでもなく、芸自体として、一流品では決してない。二流品でもない。もっと、下だ。
 金語楼が落語界の新型であったころ、芸界では、もっとケタ違いに花々しい流行児があり、それが無声映画であり、活弁であった。今の徳川夢声と生駒雷遊が人気の両横綱で、群をぬいており、西洋物で夢声、日本物で雷遊、中学生の私は夢声の出演する小屋を追っかけまわしたものであるが、当時の民心にくいこみ、時代の流行芸術としては、落語の金語楼などの比ではない。芸の格もちがう。夢声はトーキー以来漫談から芝居、映画に転じ、現在ではラジオの第一人者でもあり、文章においても、出色の存在だ。あらゆる点で日本の芸人の第一流の存在であるが、これにくらべると、金語楼や歌笑はケタ違いに小さな三級品程度にすぎないのである。
 又、漫才界では新風を劃したエンタツ、アチャコがあり、このうち、エンタツは夢声に比すべき第一級の存在で、喜劇俳優としては、一流中の第一流の天才だと思うのだが、そのすばらしい演技にもかかわらず、その風采や、又、喜劇というものの日本における位置などから、芸に相応して甚だしく低い待遇をうけているのは気の毒である。エンタツの天才や、時代感覚にくらべれば、歌笑などは、金魚とミミズぐらいの差があって、戦後にえた人気は、身に余るものであったろう。
 しかし、落語家が、歌笑をさして漫談屋だとか、邪道だというのは滑稽千万で、落語の邪道なんてものがあるものか。落語そのものが邪道なのだ。
 落語が、その発生の当初においては、今日の歌笑や、ストリップや、ジャズと同じような時代的なもので、一向に通でも粋でもなく、恐らく当時の粋や通の老人連からイヤがられた存在であったろうと思う。つまり、最も…

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