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![]() めいじかいか あんごとりもの |
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作品ID | 43219 |
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副題 | 17 その十六 家族は六人・目一ツ半 17 そのじゅうろく かぞくはろくにん・めひとツはん |
著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 10」 筑摩書房 1998(平成10)年11月20日 |
初出 | 「小説新潮 第六巻第五号」1952(昭和27)年4月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2006-08-03 / 2017-05-25 |
長さの目安 | 約 45 ページ(500字/頁で計算) |
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「ねえ、旦那。足利にゃア、ロクなアンマがいないでしょう。私ゃ足利のアンマになってもいいんですがね。連れてッてくれねえかなア。足利の師匠のウチへ住み込みでも結構でさア。どうも、東京を食いつめちゃったよ」
足利の織物商人仁助の肩をもみながら、アンマの弁内が卑しそうな声で云う。
めッぽう力の強いアンマで、並のアンマを受けつけない仁助の肩の凝りがこのメクラの馬力にかかると気持よくほぐれる。馬のような鼻息をたてて一時間あまりも力をぬかない仕事熱心なところは結構であるが、カタワのヒガミや一徹で何を仕でかすか知れないような不気味なところが気にかかる。
「何をやらかして東京を食いつめたのだ」
「ちょいと借金ができちゃッてね。小金もちの後家さんにめぐりあいてえよ。ハッハ」
「フン。そッちを探した方が確かだ。田舎じゃア、アンマにかかろうてえお客の数は知れたものよ」
「ウチの師匠は小金もちの後家さんと一しょになってアンマの株を買ってもらッたんだそうですがね。だが、田舎と云っても足利なら、結構アンマで身が立つはずだ。私の兄弟子がお客のヒキで高崎へ店をもちましたが、羽ぶりがいいッで話さ。その高崎のお客てえのが、やッぱりここが定宿の人さ」
アンマの問わず語り。
昔は「アンマのつかみ取り」という言葉があった。今の人にはこの言葉の特殊の意味がわからない。アンマが人の肩をつかんでお金をとるのは当り前の話じゃないか。洒落にも、語呂合せにもなりやしない。バカバカしい、と思うだけのことであろう。
それと云うのが「つかんで取る」の取るというのがピンとこないせいである。アンマ上下三百文(三銭)。当今は若干割高になって百五十円か二百円。決して特に取りやがるナという金ではない。大きな門構えの邸宅に「アンマもみ療治」の看板が出ているタメシはない。もんで取る金が微々たるシガない商売だから、「つかみ取り」の取るという言葉の力が全然ピンとこないのである。
ところが、江戸時代はそうではない。料金は当今と比例の同じような微々たるものでも、縄張りがあった。八丁四方にアンマ一軒。これがアンマの縄張りだ。八丁四方に一軒以外は新規開業が許されないという不文律があったのである。
だから、アンマの師匠の羽ぶりは大したものだ。多くの弟子を抱えて、つかみ取らせる。師匠は立派な妾宅なぞを構えて、町内では屈指のお金持である。直々師匠につかみ取ってもらうには、よほど辞を低うし、礼を厚くしなければならなかったものである。
今ではアンマの型もくずれたが、昔のアンマは主としてメクラで、杉山流と云った。目明きアンマもいたが、これを吉田流と云い、埼玉の者に限って弟子入りを許されていた。メクラのアンマの方は生国に限定はない。
明治になるとアンマの縄張りなぞという不文律は顧られなくなって、誰がどこへ開業しても文句がでなくなったから、つ…