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自由の使徒・島田三郎
じゆうのしと・しまださぶろう
作品ID43239
著者木下 尚江
文字遣い新字旧仮名
底本 「近代日本思想大系10 木下尚江集」 筑摩書房
1975(昭和50)年7月20日
初出「中央公論」1933(昭和8)年9月号
入力者林幸雄
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-10-21 / 2014-09-18
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   幸福なる思ひ出

 若き友よ。
 僕が島田三郎先生を語るとなれば、直ぐに一つの場面が目に浮ぶ。
 大正十二年、この年は正月早々から先生は身心の疲労で、議会へも出なされず一切来客を謝絶して、番町の自邸で静養して居られた。かゝる時、僕のやうな世務に全く無交渉の者は幸福で、時々お邪魔して、自由にお話することが出来た。
 或日、先生は、この社会多事の時に、病体で引き籠つて居るのが如何にも恥づかしいと言はれるので、僕は強く頭を振つて反対した。
『僕は然うは思ひません。先生が過去幾十年、言論文章で奮闘なされたよりも、今日病んで黙つて居なさる方が、何程大事業か知れないと、僕は信じて居ます』
『それは、どう云ふわけですか』
と先生は不思議さうに僕の顔を見られるので、僕は、先年先生が始めて普通選挙問題を提出して、世上の物議を起しなさつた折の事を思出して、先生に言うた。
『あの時、僕は「先生は普通選挙に依て政治の頽廃を救ふことが出来ると云ふ御信念ですか」とお尋ねしました所、先生は「それは違ふ。普通選挙の主唱は政治上の義務である。政治は今後益々悪化する」かう仰つしやいました。この御一言で僕は先生の御胸中を明白に知ることが出来たやうに感じましたので、直ぐ話頭を転じて他の話に移つたことを記憶して居ますが――』
『然うです。私も能く記憶して居ります』
と先生は首肯かれた。そこで僕は突き込んでお尋ねした。
『然らば、何故に政治は益々悪化致しますか』
『それは、国民の道念が頽廃したからです』
『国民の道念は何故に頽廃しましたか』
『それは、儒教で言へば天、基督教で言へば神、この天若くは神と云ふ信念が破滅した為めです』
 僕は伸び上がつて言つた。
『御覧なさい。それ程の重い苦悩を、中に担うていらつしやるではありませんか。それが即ち今日先生の御病気ではありませんか。先生今日の御病気は、一個の島田三郎のものでは無い。国民の病を病んで居なさるのだ。更に大きく言へば、今日世界共通の人間の病を病んで居なさるのだ。故に僕は言ひます。先生今日の御病気は、過去一切の御活動よりも遙かに優りたる大事業である』
 僕は何時しか先生の病体と云ふことをも忘れ、朱檀の小卓を叩いて先生に迫つた。
 先生は両手を膝に置いた儘目を閉ぢて黙想して居られた。
 僕は語気を静めて、それから自分の貧弱な「信念」の経験を先生に告白した。先生も亦多年の実験を腹蔵なく語つて下された。僕が明治三十二年の春、毎日新聞で文筆生活に従事して以来、先生の恩誼に浴すること実に二十五年、然かも、先生に対してこの日ほどの幸福を感じたことを覚えない。
『先生は常に御多忙で、時を忘れてお話をお聞きすると云ふやうな、喜びを味ふことが出来ませんでしたが、今日は始めて、胸憶を全部開いてお話することが出来ました』
 かう言うて、「病気の賜物」を感謝した。
『私…

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