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大野人
だいやじん
作品ID43240
著者木下 尚江
文字遣い新字旧仮名
底本 「近代日本思想大系10 木下尚江集」 筑摩書房
1975(昭和50)年7月20日
入力者林幸雄
校正者松永正敏
公開 / 更新2006-10-21 / 2014-09-18
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

昨年の秋『日蓮論』の附録にする積りで書きながら、遂に載せずに今日に及べるもの

       一

 日蓮を書いて居ると、長髪白髯の田中正造翁が何処からともなく目の前に現はれる。予は折々、日蓮を書いて居るのか、翁を書いて居るのかを忘れて仕舞つた。予が始めて翁を知つたのは最早十年以前。其時は丁度六十であつた。田中正造と云へば足尾鉱毒問題の絶叫者として、議会の名物男と歌はれて居た。予は其の議会の演説と云ふものを、一度も聴かなかつたが、速記録で読むと、銅山主や政府当局に対する罵詈悪口が砲弾の如く紙上に鳴動して、関東の野人が、満面朱を注いで怒号する様子がアリ/\と見えた。然れども其の罵詈悪言の余りに猛烈な為めに、予は却て鉱毒問題其物に対して、窃に疑惑を抱かぬでも無かつた。或人は冷かに『田中の鉱毒は政略さ』と笑つて居た。
 予が始めて御目にかゝつたのは、翁が進歩党を脱した、春の未だ寒い時分であつた。其頃予は足尾の山の視察記を書いて居た。或日編輯室で忙がしく筆を運ばせて居ると、社の長老の野村さんが、『田中君が一寸お目に掛りたいと言つて居ますが』、と、例の丁重な調子で言はれた。『田中?』と、予が不審がると、『正造君です』と、野村さんが継ぎ足された。予は直ぐ席を離れて応接室へ行つた。
 左右の壁側に書物棚を置いて、雨漏のシミのある天井から瓦斯の鉄管がブラ下がつた外には何一つの装飾も無い、ガランとした埃つぽい応接室。古い大きな丸卓子に肘をついて、乱髪の大頭を深く考え込んだ一個巨大の田舎老漢。大紋の赤くなつた黒木綿の羽織に色の褪せた毛繻子の袴。階下は直ぐ工場で、器械の響で騒がしい。
 予が声を掛けたので、巨大漢は顔を上げた。而して其の丘のような横広い体躯を揺り起して、額をピタリ卓子につけて痛み入る程丁寧な挨拶。其の初めて上げた顔に二つ剥き出した茶色の大眼球、予は今も判然と覚えて居る。
 其時翁は風呂敷包から新聞の切抜を取り出して、予の視察記に就て語り始めた。予の視察記は既に十日の余も続いて居た。が、翁は今朝人から注意されて始めて読んだと云ふのであつた。然う言ふ彼れの眉根は、昼夜奔走の多忙を明白に物語つて居た。足尾の山の烟毒の防備が全然無効であることを、会社の分析表で説明した記事を指して、彼は厚く礼を言ふた。二年前の鉱毒防禦工事で問題は既に解決されたものと云ふ政府の答弁に対し、彼は其の無効を怒号しつゝあつたので、予の記事が、彼の議論に証拠資料を供給したのであろう。此日は二三十分で帰つて行かれた。

       二

 翁は間もなく議員までも止めて、而して日比谷の路傍に最後手段の直訴に及んだ。『鉱毒は田中の政略さ』と嘲つた人々は、失張此の直訴までも、『芝居を演つたナ』と冷笑して居た。
 此の後だ。予は潮田さんの御伴をして、翁の案内で渡良瀬沿岸の鉱毒地を、一軒毎に見て廻つた。斯んな…

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