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女難
じょなん
作品ID43243
著者国木田 独歩
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の文学 5 樋口一葉 徳富蘆花 国木田独歩」 中央公論社
1968(昭和43)年12月5日
初出「文藝界」1903(明治36)年12月
入力者iritamago
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-08-17 / 2014-09-18
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 今より四年前のことである、(とある男が話しだした)自分は何かの用事で銀座を歩いていると、ある四辻の隅に一人の男が尺八を吹いているのを見た。七八人の人がその前に立っているので、自分もふと足を止めて聴く人の仲間に加わった。
 ころは春五月の末で、日は西に傾いて西側の家並みの影が東側の家の礎から二三尺も上に這い上っていた。それで尺八を吹く男の腰から上は鮮やかな夕陽に照されていたのである。
 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車の東西に駈けぬける車輪の音、途を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目には彼が半身に浴びている春の夕陽までがいかにも静かに、穏やかに見えて、彼の尺八の音の達く限り、そこに悠々たる一寰区が作られているように思われたのである。
 自分は彼が吹き出づる一高一低、絶えんとして絶えざる哀調を聴きながらも、つらつら彼の姿を看た。
 彼は盲人である。年ごろは三十二三でもあろうか、日に焼けて黒いのと、垢に埋もれて汚ないのとで年もしかとは判じかねるほどであった。ただ汚ないばかりでなく、見るからして彼ははなはだやつれていた、思うに昼は街の塵に吹き立てられ、夜は木賃宿の隅に垢じみた夜具を被るのであろう。容貌は長い方で、鼻も高く眉毛も濃く、額は櫛を加えたこともない蓬々とした髪で半ばおおわれているが、見たところほどよく発達し、よく下品な人に見るような骨張ったむげに凸起した額ではない。
 音の力は恐ろしいもので、どんな下等な男女が弾吹しても、聴く方から思うと、なんとなく弾吹者その人までをゆかしく感ずるものである。ことにこの盲人はそのむさくるしい姿に反映してどことなく人品の高いところがあるので、なおさら自分の心を動かした、恐らく聴いている他の人々も同感であったろうと思う。その吹き出づる哀楽の曲は彼が運命拙なき身の上の旧歓今悲を語るがごとくに人々は感じたであろう。聴き捨てにする人は少なく、一銭二銭を彼の手に握らして立ち去るが多かった。

     二

 同じ年の夏である。自分は家族を連れて鎌倉に暑さを避け、山に近き一小屋を借りて住んでいた。ある夜のこと、月影ことに冴えていたので独り散歩して浜に出た。
 浜は昼間の賑わいに引きかえて、月の景色の妙なるにもかかわらず人出少し。自分は小川の海に注ぐ汀に立って波に砕くる白銀の光を眺めていると、どこからともなく尺八の音が微かに聞えたので、あたりを見廻わすと、笛の音は西の方、ほど近いところ、漁船の多く曳き上げてあるあたりから起るのである。
 近づいて見ると、はたして一艘の小舟の水際より四五間も曳き上げてあるをその周囲を取り巻いて、ある者は舷に腰かけ、ある者は砂上にうずくまり、ある者は立ちなど…

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