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作品ID | 43252 |
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著者 | 寺田 寅彦 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「寺田寅彦全集 第七巻」 岩波書店 1997(平成9)年6月5日 |
初出 | 「文芸評論」1933(昭和8)年10月 |
入力者 | Nana ohbe |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2004-12-17 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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一
電車停留場のプラットフォームに「安全地帯」と書いた建札が立っている。巌丈な鉄棒の頂上に鉄の円盤を固定したもので、人の手の力くらいでは容易に曲げ動かすことが出来ないように出来ている。それが、どうしたのかひどく折れ曲って変態仮名の※[#変体仮名く、181-5]の字のようになっているのがある。トラックでも衝突したかと思われる。鉄棒がこんな目に遭うくらいだから人間にとってはあまり安全な地帯でないのである。従ってこの曲った標柱は天然自然の滑稽であり皮肉である。これをそっくり写真に取れば、立派な、高級な漫画になるであろう。しかし安全も危険も実は相対的の言葉である。安全地帯の危険率も、危険地帯の安全率もゼロではない。
二
ある会社のある工場に新たに就職した若い男が、就職後間もなく誰かから自分の前任者が二人まで夭死をしたこと、その原因がその工場で発生する毒瓦斯のためらしいという話を聞き込んで、ひどく驚きおびえて、少し神経衰弱のような状態になっていると聞いた。しかし前任者が果して瓦斯中毒で死んだかどうかも確実には分からないようである。一体どんな職業でも、丁度自分の前任者が引続いて二人死んだという場合を捜せばいくらも例があるかもしれない。また、前任者がみんな健康でぴちぴちしている、その後を受けた自分が明日死ぬかもしれない。また一方、毒瓦斯の出ない工場にはまた色々別の危険が潜伏していて、そうして密かに犠牲者の油断のすきを狙って爪を研いでいるであろう。それで、用心のいい人は毒瓦斯に充ちた工場で平気で働き、不用心な人は大地で躓いてすべって頭を割るのであろう。
三
「心境の変化」という言葉が近頃一時流行った。「気が変った」というのと大した変りはないが新しい言葉には現代の気分があると見える。「私の心境が変化した」というのは客観的な云い方であり、自分の心を一つの現象として記述するという点でともかくもいくらか科学的であるとT君がいう。なるほど、そう云えば「結婚をやめた」「中止した」というよりも「結婚が解消した」という云い方がやはり客観的現象的であり科学的であるかもしれない。「憂鬱になった私である」といったような不思議な表現の仕方も、そう考えるといくらか了解出来るようである。
四
流行言葉の中でも「ソートーナモンジャ」と「ドーカと思うね」には、どこか科学的なスケプチシズムの匂いがある。円タクで白山坂上にさしかかると、六十恰好の巌丈な仕事師上がりらしい爺さんが、浴衣がけで車の前を蹣跚として歩いて行く。丁度安全地帯の脇の狭い処で、車をかわす余地がない。警笛を鳴らしても爺さんは知らぬ顔で一向によける意志はないようである。安全地帯に立って見ていた二、三人連れの大学生の一人が運転手の方を覗き込んで、大声で、…