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貞操問答
ていそうもんどう
作品ID43270
著者菊池 寛
文字遣い新字新仮名
底本 「貞操問答」 文春文庫、文藝春秋社
2002(平成14)年10月10日
入力者kompass
校正者土屋隆
公開 / 更新2007-09-09 / 2014-09-21
長さの目安約 410 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

金を売る







 七月、もうすっかり夏であるべきはずだのに、この三日ばかり、日の目も見せず、時々降る雨に、肌寒いような涼しさである。
 今も、小雨が降っている。だが空はうす白く、間もなく雨も降り止みそうな光が、ただよっている。
 新子は、ぼんやり二階の居間から、外を眺めている。
 路次の水たまり、黒い小猫がぴょんぴょんと水溜をさけて、隣の生垣の下をくぐった。茶色の雨マントを着た魚屋が、自転車に乗って来て、共同水道のわきで、雨にぬれながら、切身を作り始めた。
 豆腐屋のラッパ、まだ午前なのである。
「あーあ!」新子は、かるい欠伸をした。
 とたんに、階段の下から、甘えかかった、
(新子姉さまア!)という声が、弾み上り、ドタドタとかけ上って来る足音がして、勢いよく襖が開いた。
 あまり成育しない前に、熟れてしまった果物のような、小柄な、身体全体が、ピチピチした――深々とした眼、小さい鼻、小さい唇の、生々とした新子の妹、美和子である。
「何よう!」新子は、無愛想に、広い聡明な額のうすい細い眉をひそめて、そちらを振りむいた。下顎骨が形よく精巧に発達していて、唇が大きかった。のどかそうな、それでいてひどく謎めいている大きな目が、無愛想な言葉を、やわらげるように、ニヤニヤ妹へ笑いかけていた。
「ストッキングが、みんなどれも満足なのがなくなっちゃったのよ。」
「日曜くらい、お家にいらっしゃいよ。それに、もうご飯よ。雨は降っているし……」
「だってえ、家にいたら、呼吸がつまりそうなんですもの。渡辺さんとこへ行くって約束してあるんですもの。一時の約束よ、もう支度しなければ、遅くなるわ。」
「じゃ着物になさいよ。」
「意地わるっ! こんなに、ちゃんと着てしまっているのに――」クリーム色のピケで、型ばかりはひどくハイカラだが、お手製らしいワンピースを、大仰に手を展いて見せた。その胸に、大きな乳鋲のように正確な半球が二つ、見事に盛り上っていた。
「少しくらいの穴、かがってはいていらっしゃいよ。」
「かがれるだけは、かがってよ。もう、その余地がないのよ。ほら!」美和子は、姉の膝にストッキングを落した。脚の型のまま、だぶだぶにふくらんでいる膝のあたりに、虫の喰ったくらいの丸い穴があいている。
「これくらい、大丈夫よ。マニキュアのエナメルを塗っておくと、毛が抜けないから。洋服でかくれちゃうわ。」
「うん、そうする。でも、帰りに新しいのを買って来なくっちゃ、お金頂戴!」
「この間上げた五円、どうなったの?」
「少し残っているけれど、ストッキングを買えば、バスにも乗れないわ。」
「チェッ!」笑いをふくんだ舌打ちをして、ねめすえて、五十銭銀貨を二つ出してやると、美和子は現金によろこんで、階下へ降りて行った。
 台所へ降りて、昼の支度をと思っていると、
「新子ちゃん!」と、すぐ隣の部屋…

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