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上高地風景保護論
かみこうちふうけいほごろん |
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作品ID | 433 |
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著者 | 小島 烏水 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山岳紀行文集 日本アルプス」 岩波文庫、岩波書店 1992(平成4)年7月16日 |
入力者 | 大野晋 |
校正者 | 地田尚 |
公開 / 更新 | 1999-11-25 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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このたび、松本市に開かれた信濃山岳研究会に、来会したのを、機会として、私は松本市から遠くない、上高地温泉のために、温泉のためではない、日本アルプス登山の中心点のために、将た敬虔なる順礼の心を以て、日本アルプスという厳粛なる自然の大伽藍に詣でる人々のために、同地にある美しい森林の濫伐に関して、公開状を提出する。
信州の山岳の中でも、御嶽や駒ヶ岳などは、古くから多くの登山者を有していたが、宗教が権威を失った今日では、新しい登山家は、種々の理由からして、日本アルプスの中でも、殊に飛騨山脈を選び、飛騨山脈の中でも、最高点の槍ヶ岳や穂高岳の特色ある火成岩の大塊は特に多くの人々を引きつけているらしく思われる。そうして槍ヶ岳や穂高岳への最も好適なる登山地点は、上高地温泉であることは、言うまでもない。
山岳は登山地点の便不便によって、世に著われることの遅速があり、かつ人間との交渉を多少にすることを免かれがたい、欧洲アルプスのマタアホーン山は、日本の槍ヶ岳に類似した峻峰で、久しく人界から超絶していたが、ゼルマットという登山地点が発見せられ、そこにいい旅館が出来て、叮嚀に客を待遇するようになってからは、初めての年に、一ヵ年八十人ぐらいしか登山客のなかった土地が、後には毎年何千人という登山者を見るようになった、アルプス山の最高峰、白山における登山地点、シャモニイ渓谷の発見も、また同様の関係を有している。
我が日本アルプスでも、上高地は、私が明治三十五年に、白骨温泉から梓川を渉って、霞沢岳を踰え、この峡谷に下りて、槍ヶ岳へ登ったときは、夏とはいえ、寂寥無人、太古の如き感があって、温泉の湧出はあっても、今日のような宿屋は、まだ建っていなかった。その時分上高地峡谷に入る人は、猟師の外に、稀に飛騨の蒲田谷から、焼岳を越えて来るか、あるいはその反対を行く旅人を見るに過ぎなかったのであろうと想像されるが、今日では夏日になれば、登山客がこの谷に多く群集して、数十年来の谷の主、老猟師嘉門次に呆れた眼を[#挿絵]らせるようになった。
私が温泉宿の主人、加藤氏に聞いたところを事実とすれば、明治四十二年は、宿帳に註せられた客が千百三十人、翌四十三年は、千百九十人で、最も混雑する時は、一日に九十人位を泊めることがあったそうである、現に我参謀本部の陸地測量部が、大正元年測量したばかりの槍ヶ岳焼岳二図幅(五万分一図)を、翌年製図発行したことなどは、その早手廻しにおいて、前例のないことで、それは登山者の希望のあるところを容れた結果であろうとも推せられるし、また実際、多数は則ち勢力であるから、多数の登山者を有する山岳は、それだけの要求を有し得らるることと信ずる。
かくの如き繁昌が、単に温泉のためでなく、登山または観光を主要な目的とする客が、その過半数を占めているというに至っては、常念山脈の麓にある、…