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校長三代
こうちょうさんだい |
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作品ID | 43313 |
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著者 | 太宰 治 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「太宰治全集11」 筑摩書房 1999(平成11)年3月25日 |
初出 | 「帝國大學新聞」1938(昭和13)年10月31日 |
入力者 | 向井樹里 |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2005-02-04 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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私が弘前の高等學校にはひつてその入學式のとき、訓辭した校長は、たしか黒金といふ名前であつたと記憶してゐる。金椽の眼鏡を掛け、痩身で、ちよつと氣取つた人であつた。高田早苗に似てゐた。植木が好きで、學校のぐるりに樣々の植木を、優雅に配置し、ときどき、ひとり、兩手をうしろに組んで、その植木の間を、ゆつくり縫つて歩いてゐた。
間もなくゐなくなつて、そのかはりに來たのは、鈴木信太郎氏である。このひとの姓名は、はつきり覺えてゐる。このひとはちよつと失敗した。いまは、どうして居られるか。政治家肌のひとで、多少、政黨にも關係があつたやうである。就任早々、一週を五日として、六日目毎に休日を與へ、授業も毎日午前中だけにしたい、それゆゑに生徒が怠けるとは思はれない。自分は生徒を信じてゐる、といふやうな感想を述べ、大いに生徒たちを狂喜させたが、これは、實現されなかつた。結局、感想にすぎなかつた。けれども他のことを實行した。
一校を一國家と看做し、各クラスより二名づつの代議士を選擧し、學校職員ならびに校友會委員は、政府委員となり、ときどき議會をひらいて、校政を審議するといふやうな謂はば維新を斷行した。
校長自身は、さしづめ一國の宰相とでもいふやうなところであつた。代議士選擧は、さかんであつた。學校の廊下には、べたべた推薦のビラが張られて、選擧事務所なども、ものものしく、或るものは校門の下に立つて、登校の生徒ひとりひとりに名刺を手交し、よろしくたのみます、といつて低くお辭儀をして、或るものは、中學校の先輩といふ義理のしがらみに依つて、後輩を威嚇し、饗應、金錢、などといふばかな噂さへ立つた。
この議會制度は、のちに宰相を追放した。あのときは、たいへんな騷ぎであつた。校長が、生徒たちの醵金してためて置いた校友會費、何萬圓かを、ひそかに費消してしまつてゐたのである。何に使つたかは、輕々に、私たち、今は言へない。校長自身が、知つてゐる。そのころの政客のあひだでは、そんなこと平氣なんだらうが、「教育界でそんなことをして、ばかだ。」と當時縣會議員をしてゐた、私の兄が言つてゐた。はじめから普通でなかつた。全然無學の人の感じであつた。縫紋の、ぞろりとした和服が、よく似合つて、望月圭介に似てゐた。それだけで、何もかも、判るだらう。洋服のときはゴルフパンツである。堂々の押し出しで、顏も美しかつた。たまに、學校へ人力車に乘つてやつて來て、祕書をしたがへ、校内を一巡する。和服に、絹の白手袋、銀のにぎりのステツキである。一巡して、職員たちに見送られ、人力車に乘つて悠々、御歸館。立派であつた。それこそ、兄貴の言葉ではないが、教育界にゐてそんなことをしたからこそ、失敗なので、あれで、當時の政黨にゐて動いてゐたなら、あるひは成功したのかも知れない。不幸な人であつた。
校長には、息子があつた。やはり弘前高等…