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大菩薩峠
だいぼさつとうげ |
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作品ID | 4338 |
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副題 | 22 白骨の巻 22 しらほねのまき |
著者 | 中里 介山 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「大菩薩峠7」 ちくま文庫、筑摩書房 1996(平成8)年3月21日 「大菩薩峠8」 ちくま文庫、筑摩書房 1996(平成8)年3月21日 |
入力者 | 大野晋、tatsuki、門田裕志 |
校正者 | 原田頌子 |
公開 / 更新 | 2004-02-13 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 261 ページ(500字/頁で計算) |
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一
この際、両国橋の橋向うに、穏かならぬ一道の雲行きが湧き上った――といえば、スワヤと市中警衛の酒井左衛門の手も、新徴組のくずれも、新たに募られた歩兵隊も、筒先を揃えて、その火元を洗いに来るにきまっているが、事実は、半鐘も鳴らず、抜身の槍も走らず、ただ橋手前にあった広小路の人気が、暫く橋向うまで移動をしたのにとどまるのは、時節柄、お膝元の市民にとっての幸いです。というのはこのほど、両国の回向院に信州善光寺如来のお開帳があるということ。そのお開帳と前後して、回向院の広場をかりて広大な小屋がけがはじまったこと。その小屋がけの宣伝ビラが、早くも市中の辻々、湯屋、床屋の類に配られて、行く人の足を留めているということ。
その宣伝ビラもまた、小屋がけの規模の大なると同じく、ズバ抜けて大きなものへ、亜欧堂風の西洋彩色絵で、縦横無尽に異様の人間と動物とを描き、中央へ大きく、
「切支丹大奇術一座」
この宣伝ビラは、宣伝ビラそのものがたしかに人気を集めるの価値がありました。
幕府の威力衰えたりといえども、西洋の風潮、多少人に熟したりといえども、「切支丹」の文字は字面そのものだけで、まだたしかに有司を嫌悪せしめるの価値がある。
果せる哉。この宣伝ビラの「切支丹」の文字だけに、翌日から張紙がされて、その上に改めて、「西洋」の二字が記されました。
この興行の勧進元が役所へ呼び出された時に、どんな食えない奴かと思えば、意外にもそれは女で、お上のお叱りに対して、一も二もなく恐れ入り、早速、人を雇うて満都の宣伝ビラを訂正にかからせたのは素直なもので、決してことさらに反抗的に宣伝して、人気を煽ろうというほどな陋劣な根性に出でたのではなく、誰かにそそのかされて、何の気なしにやったことが諒解が届いたから、役人たちも、単に張紙をさせるだけで、後は問いませんでした。
この勧進元の女こそ、女軽業の親方のお角であります。ともかく、今度の興行には、有力なる金主か黒幕が附いたに違いない。従来の広小路の軽業小屋では狭きを感じて、新たに回向院境内へすばらしい小屋を立てたのでもわかります。
「御冗談でしょう、看板でオドかそうなんて、そんなケチな真似をするお角さんとは、憚りながらお角さんのカクが違いますよ、蓋をあけたら正味を見ていただきましょう、正銘手の切れる西洋もどりのいるまんですよ。大道具大仕掛の手間だけでも、お目留められてごらん下さい、小手先のあしらいとは、ちっと仕組みが違うんですからね」
こういってお角が気焔を吐いているところを見れば、おのずからその自信のほどもうかがわれようというものです。
事実、このたびの興行は、以前のようなケレン気を脱したところがある。宇治山田の米友を黒く塗って、印度人に仕立てて当りを取ったペテンとは違って、何か、しっかりした拠りどころがなければ、…