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生活と一枚の宗教
せいかつといちまいのしゅうきょう |
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作品ID | 43463 |
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著者 | 倉田 百三 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「世界教養全集 10」 平凡社 1963(昭和38)年5月31日 |
入力者 | kamille |
校正者 | 大野裕 |
公開 / 更新 | 2013-04-24 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 140 ページ(500字/頁で計算) |
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一 信仰の経路について
私の信仰
これから私のもっている信仰についてお話をしたいと思います。私の信仰と申しますのは、いったい仏教であるか何であるかわからないのであります。私は仏教の経典というものはあまり読んだこともありませぬし、じつはよくわからないのであります。正式に仏教というものと関係があるということを申しますと、坐禅をしたことがありますが、それは正式の仏教としての修行であります。けれども仏教の哲学とか経典とかいうものはよく知りませぬ。私は『出家とその弟子』というものを書きまして、仏教のほうの人間だと思われております。しかしとにかく私のもっております信仰というものは、まあ禅宗とそれから真宗、これはたいへん似ていると思うのでありますが、ことに私の宗教というものは浄土真宗の信仰というものが『出家とその弟子』を書きましたときよりも後になって、だんだんと自分の身についてまいりまして、今ではそれが私の身体から離せないものになっております。山田霊林というかたがありまして『禅の生活』というものを出しておられますが、私が『絶対的生活』という書物を出しまして、そのなかに、私が強迫観念を治した経路のことを書きましたらそれをごらんになって、これは非常に禅宗的である。禅宗の公案の解決の仕方とじつにぴったりしたものである。これくらい禅宗的なものはないというて、転載させてくれというので載っているようなしだいでありますが、そういうふうに宗教の専門のかたが横のほうからごらんになったときに、私のもっている生活の信仰というものが仏教的なのでございまして、私自身では仏教というふうにとくべつに考えているわけではないのであります。したがって私がお話申しあげますときにも言葉が、あるいは仏教のほうの言葉をかってにもってきますと、とんでもないことを使っておるようでありますがご容赦を願います。
人はみな如来なり
たとえば如来でありますが、私の信仰ではみなさんはみな如来であります。一人一人が如来であります。それで仏と申しますのは、如来――自分がこのままで如来であるということを気づいたときにそれが仏であります。でありますからして私はみなさんの一人一人を、子どものようなかたでも一人一人が私には如来であります。それで如来というのは、その人がどういう知識をもっておるとか、あるいはどういう仕事をしたとか、どういう思想をもっているとか、あるいはまたどういう考えをしているとか、あるいは信仰をもっているということさえも、その人がどういう仏教の信仰をもっているかという関係なしに、無条件に一人一人の存在しているものはみな如来である。ただ如来ということに気づかない。気がついているかたがあるならばそれは仏さまでありますが、気がつかないかたが多かろうと思います、たとえ気がつかなくてもそれは如来であります。それが気が…