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唯心的、凡神的傾向に就て(承前)
ゆいしんてき、はんしんてきけいこうについて(しょうぜん) |
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作品ID | 43492 |
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著者 | 山路 愛山 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」 筑摩書房 1969(昭和44)年6月5日 |
初出 | 「国民新聞」1893(明治26)年4月19日 |
入力者 | kamille |
校正者 | 鈴木厚司 |
公開 / 更新 | 2006-08-14 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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女学雑誌社を代表者として、現出せし一派の流行思想(吾人は之れを唯心的、凡神的の傾向と云ふ、直ちに之を唯心論、凡神論なりとは曰はず)は左の現象を示したり。
(一)個人の品位を認識せざること。人は個人として此世に生れたり、個人として其特性を有し、其天職を有し、其権利を有す。若し国家を以て個人の特性、天職、権利を殺さんとせば人は必らず其不可を尤めん。然れども人をして己を捨てゝ自然の流行に一任せしめんとするに至つては之を不可とせざる乎。天知子の利休を論ずるに曰ふ、
大象いかで兎径に遊ばん、老荘は到底孔孟の伴侶にあらず。人世の活文章を誠一片にて組立てんとするの小智を笑ひ、道徳律義の繩墨のみを以て活人を料理せんとするの狭量を愍れみ、為さんとするの善は多く偽善たるを免かれず。去らんと苦心するの悪は多く縮局せる狐疑善を脱せず、無為恬淡として自然に帰るを道とす、
と請ひ問ふ、所謂自然に帰るとは何ぞや、人既に世に生れたり、自然と離れたり、自然の上を超へて立てり。如何にして自然に返るべき人の智識果して小智なるや否を知らず、人の善果して狐疑善たるや否を知らず、然れども個人は個人の信ずる所を為し、個人の行くべき所を行くべきに非ずや。宇宙の大経綸は吾人の小智小善が相集りて成れる者に非ずや。若し自然に還ると云ふことを以て孔子が所謂身を殺して仁を為すもの也、パウロが所謂もはや吾活くるに非ず、基督吾れに在りて活くる者也と云はゞ可也。
形骸に拘々せず、小智に区々せず、清濁のまに/\呑み尽し、始めて如来禅を覚了すれば万行体中に円かなり。 (天知子)
と説くに至つては個人全く死せる也。個人の品位を認識せざる也。
(二)事業を賤しむこと、吾人は信ず時を離れて永遠なし、事業を離れて修徳なしと。時は即ち永遠の一部に非ずや、事業は即ち修徳の一部に非ずや、永遠の為めに現時を賤しむ者、修徳の為めに事業を軽んずる者は是れ矛盾の論法也。昔しは朱子理気の学を以て一代の儒宗たりしかども、猶且当世の務を論ずることを忘れざりき。今日の為めにする即ち永遠の為めにする也、己れの目前に置かれたる事業を喜んで為す、是れ修徳也。所謂善人善を為す惟日も足らざる者、一日の中には一日の事ある者是也、之れを思はずして、徒らに事業を賤しみ、之を俗人の事となし、超然として物外に[#挿絵][#挿絵]せんとするに至つては抑も亦名教の賊に非ずや。
透谷氏芭蕉池辺明月の什を論じて曰く
彼れは実を忘れたる也、彼れは人間を離れたる也、彼れは肉を脱したる也、実を忘れ、肉を脱し、人間を離れて、何処にか去れる、杜鵑の行衛は問ふことを止めよ、天涯高く飛び去りて絶対的の物即ち理想にまで達したる也。
彼れが富嶽の詩神を思ふの文は愈奇也、曰く
寤果して寤か、寐果して寐か、我是を凝ふ、深山夜に入りて籟あり、人間昼に於て声なき事多し、寤むる時人真に寤めず、寐る時往々…