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![]() くろねこ |
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作品ID | 4350 |
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著者 | 薄田 泣菫 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「泣菫随筆」 冨山房百科文庫43、冨山房 1993(平成5)年4月24日 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2003-04-06 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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「奥さん、謝れなら謝りまんが、それぢやお宅の飼猫だすかいな、これ」
荷車曳きの爺さんは、薄ぎたない手拭で、額の汗を拭き拭き、かう言つて、前に立つた婦人の顔を敵意のある眼で見返しました。二人の間には、荷車の轍に轢き倒された真つ黒な小猫が、雑巾のやうに平べつたくなつて横たはつてゐました。
六月のむしむしする日の午後でした。私は大阪のある場末の、小学校裏の寂しい裏町を通りかかつて、ふとこんな光景を見つけました。
「いいえ、宅の猫ぢやありません。うちの猫だつたら、こんなとこに独り歩きなぞさせるもんですか。可哀さうに」
婦人のそばかすだらけの顔は、憎しみでいくらか曲つてゐるやうに見えました。小さな鼻の上には、脂汗が粒々になつて溜つてゐました。間違ヘやうもない、新聞の婦人欄でよく見覚えのある関西婦人――協会の幹事で、こちらの婦人界では顔利きの一人でした。婦人――協会といふのは、鮨万の板場から聞いた東京鮨の拵へ方と、京都大学教授から受売りのアインシユタインの相対性原理の講釈とを、一緒くたにして取り扱ふことのできる所謂有識婦人の集まりでした。
「へえ、お宅の飼猫やないもんを、なんでまたわてがあんさんに謝らんなりまへんのだすか」
爺さんは、小猫が婦人のものでなかつたのを聞くと、急に気強くなつて、反抗的に唇を尖らせました。
「私にあやまれと誰が言ひました」
婦人は強ひて気を落ちつけようとして、袂から手巾を取り出して鼻先の汗を拭きました。
「そんなら誰にあやまるんだす。あやまる相手がないやおまへんか」
爺さんは口論に言ひ勝つたもののやうに、白い歯を見せてせせら笑ひをしました。通りかかつた近所の悪戯つ児が三、四人立ち停つて、二人の顔を見較べてゐました。
「いや、あります」婦人はきつぱりと言ひました。「この小猫にあやまらなくちやなりません」
「猫に」爺さんは思はず声を立てて眼を円くしました。「猫にあやまれなんて、阿呆らしいこと言ひなんな。わてかう見えても人間だつせ」
このとき、死にかかつた小猫は痙攣るやうに後脚をびくびく顫はせて、真つ黒な頭を持ち上げようとしましたが、雑文ばかり流行つて、一向秀れた創作が出ないと言ふ批評家の言葉が耳に入つたものか、それとも小猫にあやまらさうとする婦人の言葉を洩れ聞いて、もしかそんなことにでもなつたなら、一番挨拶に困るのは自分だと思ふにつけて、急に世の中が厭になつたかして、そのままぐつたりとなつて息が絶えてしまひました。
そんなことに頓着のない二人は、哀れな小猫の死骸の上で元気よく喧嘩を続けました。婦人は言ひました。
「さうです。あなたは人間です。だからあやまらなくちやなりません。あなたが過失にしろ小猫を轢き殺したのは悪いことです。自分のした悪いことを後悔してそれをあやまるのは、人間だけにしかできないことなんですからね」
荷車曳きの爺さ…