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島木赤彦臨終記
しまぎあかひこりんじゅうき
作品ID43500
著者斎藤 茂吉
文字遣い新字旧仮名
底本 「斎藤茂吉選集 第八巻」 岩波書店
1981(昭和56)年5月27日
初出「改造」1926(大正15)年5月
入力者kamille
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2005-01-29 / 2014-09-18
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 大正十五年三月十八日の朝、東京から行つた藤沢古実君が、[#挿絵]蔭山房に赤彦君を見舞つた筈である。ついで摂津西宮を立つた中村憲吉君が、翌十九日の午ちかくに到著した筈である。廿日夜、土屋文明君が東京を立つた。
 翌廿一日の午過ぎに、百穂画伯、岩波茂雄さんと僕とが新宿駅を立つた。たまたま上京した結城哀草果君も同道した。少しおくれて東京から高田浪吉、辻村直の両君が立ち、神戸から加納暁君が立つた。
 上諏訪の布半旅館で、中村憲吉君、土屋文明君、上諏訪の諸君と落合つて、そこで一夜を過ごした。中村、藤沢両君の話に拠ると、十七日に、主治医の伴鎌吉さんが、赤彦君の黄疸の一時的のものでないことの暗指を与へたさうである。その夜、夕餐のとき赤彦君は『飯を見るのもいやになつた』といつたさうである。十八日に摂津国を立つた中村君は、十九日に[#挿絵]蔭山房に著いた。その時赤彦君は、『煙草ももう吸ひたくなくなつた』『ただ静かにしてゐるのが何よりだ』と云つたさうである。翌廿日、中村、藤沢の両君が諏訪上社に参拝祈願して護符を奉じて来た。赤彦君は、『ありがたう。おれにいただかせろ』といつた。こゑは既にかすかで、一語一語骨が折れる風であつた。夫人の不二子さんは護符を以て俯伏してゐる赤彦君の頭を撫でた。赤彦君は、『ありがたう』といつた。そして、『きたないとこに置くなよ』と云つたさうである。その夜、藤沢古実君に、言葉が跡切れ跡切れに、『己はな、いかんとも疲労してしまつてなあ。余病のために、黄疸のために、まゐるかも知れん』と云つた。その終の『まゐるかも知れん』のところが急に大ごゑになつて、健康な時の朗々たるこゑを思はせたので、胸がぎくりとしたと古実君が語つた。
 廿一日朝、赤彦君は首をあげて、皆に茶を飲みに来るやうに云つた。中村憲吉、藤沢古実、丸山東一、久保田健次の諸君、不二子さん、初瀬さんが集まつた。その時、藤沢君の美術学校卒業製作塑像の写真を見せると、『ありがたう。素直だな。しづかなのは一層むづかしいものだ』と云つたさうである。それから、『どうもな。本病より余病の方がえらいやうだ。斎藤もさう云つて来たよ。伴も同じ意見だ。余病が。余病が余病だけですめばいいが、本病にはとりつけないで』とも云つたさうである。僕は、神保博士の意見として、どうも黄疸は単純な加答児性のものでなく肝の方から来てゐることを手紙に書いたのであつた。それでも癌の転移証状であることは書けなかつたのである。赤彦君はそれゆゑ飽くまで黄疸を余病と看做し、余病を先づ退治して置いて、そして生きられるだけ生きようと覚悟したのであつた。それであるから、極力友人に会ふことを厭うて、静かに身を保たむとしたのであつた。赤彦君は四五月の候になれば余病を退治して、今度は楽しく友にも会はうと思つてゐたのである。赤彦君はその夜こんなことをも云つ…

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