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念珠集
ねんじゅしゅう |
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作品ID | 43501 |
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著者 | 斎藤 茂吉 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「斎藤茂吉選集 第八巻」 岩波書店 1981(昭和56)年5月27日 |
初出 | 「改造」1925(大正14)年11月、1926(大正15)年4月 |
入力者 | kamille |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2005-01-30 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 45 ページ(500字/頁で計算) |
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1 八十吉
僕は維也納の教室を引上げ、笈を負うて二たび目差すバヴアリアの首府民顕に行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県金瓶村で僕の父が歿した。真夏の暑い日ざかりに畑の雑草を取つてゐて、それから発熱してつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に大地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出が一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠の珠の一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上の童であつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読書がよく出来て、遊びでは根木を能く打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日の午すぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵で溺死した。
そのときのことを僕はいまだに想浮べることが出来る。その日は村人の謂ふ『酢川落ち』の日で、水嵩が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝当つてそこに一つの淵をなしてゐたのを『葦谷地』と村人が称へて、それは幾代も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻の類が繁つてゐて、そこをいろいろの獣類が恣に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切がかしましく啼いてゐるこゑが今僕の心に蘇つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝ずんだ青い水を湛へて幾何深いか分からぬやうな面持をして居つた。
瞳を定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡が流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから縦ひ大人であつてもそこから余程川下の橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて掌を合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き徹るやうな砂であるから、水遊する童幼は白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競をしたりするのであつた。
旧暦の六月廿六日は『酢川落ち』の日…