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熊野奈智山
くまのなちさん
作品ID43507
著者若山 牧水
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第五卷」 雄鷄社
1958(昭和33)年8月30日
入力者kamille
校正者林幸雄
公開 / 更新2004-10-19 / 2014-09-18
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 眼の覺めたままぼんやりと船室の天井を眺めてゐると、船は大分搖れてゐる。徐ろに傾いては、また徐ろに立ち直る。耳を澄ましても濤も風も聞えない。すぐ隣に寢てゐる母子づれの女客が、疲れはてた聲でまた折々吐いてゐるだけだ。半身を起して見[#挿絵]すと、室内の人は悉くひつそりと横になつて誰一人煙草を吸つてる者もない。
 船室を出て甲板に登つてみると、こまかい雨が降つてゐた。沖一帶はほの白い光を包んだ雲に閉されて、左手にはツイ眼近に切りそいだ樣な斷崖が迫り、浪が白々と上つてゐる。午前の八時か九時、しつとりとした大氣のなかに身に浸む樣な鮮さが漂うて自づから眼も心も冴えて來る。小雨に濡れて一層青やかになつた斷崖の上の木立の續きに眼をとめてゐると、そのはづれの岩の上に燈臺らしい白塗の建物のあるのに氣がついた。
「ハヽア、此處が潮岬だナ。」
 と、先刻から見てゐた地圖の面がはつきりと頭に浮んで來た。尚ほ見てゐると燈臺の背後は青々した廣い平原となつて澤山の牛が遊んで居る。牧場らしい。
 小雨に濡れながら欄干に捉つてゐると、船は正しくいまこの突き出た岬の端を[#挿絵]つてゐるのだ。舵機を動かすらしい鎖がツイ足の爪先を斷えずギイ/\、ゴロ/\と動いて、眼前の斷崖や岩の形が次第に變つてゆく。そして程なくまた地圖で知つてゐた大島の端が右手に見えて來た。
「此處が日本の南の端でナ。」
 氣がつかなかつたが私の側に一人の老人が來て立つてゐた。そして不意に斯う、誰にともなく(と云つて附近には私一人しかゐなかつた)言ひかけた。
「左樣なりますかネ、此處が。」
「左樣だネ、此處が名高い熊野の潮岬で、昔から聞えた難所だよ。」
 日本の南の端、臺灣や南洋などの事の無かつた昔ならばなるほど此處がさうであつたかも知れぬと、そんな事を考へてゐると老人は更に種々と話し出した。丁度此處には沖の大潮(黒潮のことだと思つた)の流がかかつてゐるので、通りかかつた他國者の鰹船などがよく押し流された話や、鰹の大漁の話、先年土耳古軍艦の沈んだのも此處だといふことなど。
 かなりの時間をかけてこの大きな岬の端を通り過ぎると、汽船の搖は次第に直つて來た。そして程なく串本港に寄り、次いで古座港に寄つて勝浦に向つた。
船にしていまは夜明けつ小雨降りけぶれる崎の御熊野の見ゆ
日の岬潮岬は過ぎぬれどなほはるけしや志摩の波切は
雨雲の四方に垂りつつかき光りとろめる海にわが船は居る

 勝浦の港に入る時は雨はなほ降つてゐた。初め不思議に思つた位ゐ汽船は速力をゆるめて形の面白い無數の島、若しくは大小の岩の間をすれすれに縫ひながら港へ入り込んで行つた。その島や岩、またはその間に湛へた紺碧の潮の深いのに見惚れながら、此處で降りる用意をするのも忘れて甲板に突つ立つてゐると、ふと私は或事を思ひ出した。そして心あての方角を其處此處と見[#挿絵]してゐ…

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