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手品師
てじなし
作品ID43552
著者久米 正雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 45 水上瀧太郎 豐島與志雄 久米正雄 小島政二郎 佐佐木茂索 集」 筑摩書房
1973(昭和48)8月30日
初出「新思潮」1916(大正5)年4月
入力者伊藤時也
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2006-10-18 / 2014-09-18
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 浅草公園で二三の興行物を経営してゐる株式会社『月世界』の事務所には、専務取締役の重役がいつもの通り午前十時十五分前に晴々しい顔をして出て来た。美しく霽れ上つた秋の朝で、窓から覗くと隣りのみかど座の前にはもう二十人近くの見物人が開館を待つてゐる。重役はずつとそれらを見渡して、満足さうに空を仰いだ。すぐ前にキネマ館が白い壁を聳ててゐるので、夜前の雨に拭はれ切つた空が、狭く細い一部分しか見えない。併し重役はそこから輝き落ちる青藍の光芒をぢつと見やつて眼をしばたゝいた。
「いゝ天気ですね。此分ぢや今日は嘸込むでせう。」傍の事務員が話しかけた。
「天気商売をしてゐると初めて太陽様の有難味がわかる。」重役は窓から身を引き乍らそれに答へた。そして其時自分にお辞儀をしかけた若い座附作者を眺めて、「君なぞはまだ解るまいが、浅草は天気模様によつてすぐ百二百は違ふんだからね。」
「何しろ今日の日曜は満員でせうな。」とその作者はまだ学生の癖のとれない抑揚で気軽に云つた。
「うむさう/\、君を褒めようと思つてゐた処だ。」と重役は若い人を奨励する時に誰でもするやうな表情で云つた。「今朝湯の中でうちの小屋の評判を聞いたよ。何でも君の今度の連鎖劇が大変受けてゐるらしい。」
「有難い仕合です。」作者は妙に苦笑し乍ら云つた。「これからも精々いゝ種を仕入れるとしませう。」
 此の作者は今年大学を出た許りであつた。そして単に食ふことの必要上此処に入つて匿名で連鎖劇を書いてゐた。彼には一人で高級な創作をしてゆくだけの自信も無かつたし、それに加へて学校にゐる時分から既に職業といふ問題を考へなくちやならない境遇にあつた。食つてゆくためには仕方がない。彼はあらゆる芸術上の操守を棄てて「作者道」に入つた。
 勿論作者と云ふ商売は面白くないものではなかつた。自分の書いたものが、白いシーツに写つたり、脚光に照らし出されたりして、観客の感情をいろ/\と唆り立てる事は、ひそかにそれを見てゐる彼にとつても尠なからず愉快であつた。一日と十五日には職工の休み日なので毎も満員であつたがその三階まで充満した見物の喝采が、背景の後ろにゐる彼の耳まで達する時、彼は思はず微笑んで四囲を見廻すのが常であつた。或時は特等席に来てゐる美しい芸者が忍び音に彼の悲劇に泣いてゐるのも見た。或時は豪放らしい学生が思はず彼の活劇に興奮してゐるのも見た。
 初め入つた頃彼は一日も早く此んな厭な商売をよして了ひたいと思はぬ日はなかつた。座長からは妙な註文が出る。大道具がごてる。撮影技師からは場面の除去を申し込まれる。事務からは不平が起る。彼はほと/\困惑した。そして一日も早く自由が得られ、思ふまゝの創作ができる日を望んだ。
 併し、慣れるに伴れて、骨を呑み込んで了ふと、すべてが御し易くなつて来た。見物といふものも初めは恐かつたが今は可愛くなつた。彼…

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