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犬神娘
いぬがみむすめ |
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作品ID | 43559 |
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著者 | 国枝 史郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「怪しの館 短編」 国枝史郎伝奇文庫28、講談社 1976(昭和51)年11月12日 |
初出 | 「講談倶楽部」1935(昭和10)年9月増刊 |
入力者 | 阿和泉拓 |
校正者 | 多羅尾伴内 |
公開 / 更新 | 2004-12-20 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 38 ページ(500字/頁で計算) |
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一
安政五年九月十日の、午の刻のことでございますが、老女村岡様にご案内され、新関白近衛様の裏門から、ご上人様がご発足なされました際にも、私はお附き添いしておりました。(と、洛東清水寺成就院の住職、勤王僧月照の忠実の使僕、大槻重助は物語った)さて裏門から出て見ますると、その門際に顔見知りの、西郷吉之助様(後の隆盛)が立っておられました。
「吉之助様、何分ともよろしく」
「村岡様、大丈夫でごわす」
と、二人のお方は言葉すくなに、そのようにご挨拶なさいました。その間ご上人様にはただ無言で、雲の裏に真鍮のような厭な色をして、茫とかかっている月を見上げ、物思いにふけっておられました。でもいよいよお別れとなって、
「ご上人様、おすこやかに」
と、こう村岡様がおっしゃいますと、
「お局様、あなたにもご無事で。……が、あるいは、これが今生の……」
と、たいへん寂しいお言葉つきで、そうご上人様は仰せらました。
行き過ぎてから振り返って見ましたところ、まだ村岡のお局様には、同じところに佇んで、こなたを見送っておられました。
それから私たち三人の者は、ご上人様のご懇意の檀那で、御谷町三条上ルに住居しておられる、竹原好兵衛様というお方のお家へ、落ち着きましてございます。
すると有村俊斎様が、間もなく訪ねて参られました。
吉之助様と同じように、薩州様のご藩士で、勤王討幕の志士のお一人で、吉之助様の同士なのでございます。
「さて上人の扮装だが、何んとやつしたらよかろうのう」
と吉之助様はこうおっしゃって、人並より大きい切れ長の眼を、ご上人様へ据えられました。
すると側にいた俊斎様が、
「竹の笠に墨染めの腰衣、乞食坊主にやつしたらどうかな」
と、眉の迫った精悍な顔へ、こともなげの微笑を浮かべながら、そう吉之助様へおっしゃいました。
「それには上人は立派すぎるよ。神々しいほど気高いからのう」
「なるほど、優しくて婦人のようでもあるし」
「高僧の姿そのままで、駕籠に乗って行くが無難じゃろう」
「途中で疑がわれて身分を問われたら?」
「薩摩の出家じゃと申せばよか」
「それにしては言葉がちとな」
「師の坊は幼少より京都におわし、故郷に帰らねばとこう申せばよか」
「なるほど、上人の京訛りも、そう云えば疑がいなくなるじゃろう。それでもとやかく申す奴があったら、この有村たたっ切る」
「痴言申すな!」
と吉之助様が、その瞬間に恐ろしいお声で、こう俊斎様を叱咤なされました。
「月照上人は近衛殿から、俺が懇篤に頼まれたお方じゃ! それに俺には義兄弟じゃ! 安全の場所へおかくまいするまでは、上人の身辺で荒々しい所業など、どうあろうと起こしてはならぬ! それを何んじゃ斬るの突くのと! もう汝の力など借りぬ! 俺一人で送って行く! 帰れ帰れ、汝帰れ!」
力士陣幕に似てい…