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猿ヶ京片耳伝説
さるがきょうかたみみでんせつ
作品ID43561
著者国枝 史郎
文字遣い新字新仮名
底本 「怪しの館 短編」 国枝史郎伝奇文庫28、講談社
1976(昭和51)年11月12日
初出「冨士」1937(昭和12)年10月
入力者阿和泉拓
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-12-21 / 2014-09-18
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

    痛む耳

「耳が痛んでなりませぬ」
 と女は云って、掌で左の耳を抑えた。
 年増ではあるが美しいその武士の妻女は、地に据えられた駕籠の、たれのかかげられた隙から顔を覗かせて、そう云ったのであった。
 もう一挺の駕籠が地に据えられてあり、それには、女の良人らしい立派な武士が乗っていたが、
「こまったものだの。出来たら辛棒おし。もう直だから」
 と、優しく云った。
「とても辛棒なりませぬ。痛んで痛んで、いまにも耳が千切れそうでございます」
 と女は、武士の妻としては仇めきすぎて見える、細眉の、くくり頤の顔をしかめ、身悶えした。
「このまま沼田まで駕籠で揺られて参りましては、死にまする、死んでしまうでございましょう」
「莫迦な、耳ぐらいで。……とはいえそう痛んではのう」
 と武士は、当惑したように云った。
 ここは、群馬の須川在、猿ヶ京であった。
 三国、大源太、仙ノ倉、万太郎の山々に四方を取り巻かれ、西川と赤谷川との合流が眼の下を流れている盆地であった。
 文政二年三月下旬の、午後の陽が滑らかに照っていて、山々谷々の木々を水銀のように輝かせ、岩にあたって飛沫をあげている谿水を、幽かな虹で飾っていた。散り初めた山桜が、時々渡る微風に連れて、駕籠の上へも人の肩へも降って来た。
「やむを得ない」
 と武士は云った。
「舅殿がお待ちかねではあろうが、そう耳が痛んでは、無理強いに行くもなるまい。……今夜一晩猿ヶ京の温泉宿で泊まることにしよう」
「そうしていただきますれば……そこで一晩手あてしましたら、……明日はもう大丈夫」
 と女は云って、遙かの谿川の下流、山の中腹のあたりに、懸け作りのようになって建ててある温泉宿、桔梗屋の方を見た。
「聞いたか」
 と武士は、駕籠の横の草の上へ腰をおろし、[#挿絵]み箱を膝の上へのせている、忠実らしい老僕へ云った。
「今夜はここの温泉宿へ泊まるのじゃ。そちも皺のばしが出来るぞ」
「有難いことで」
 と僕は云った。
「越後の長岡から三国を越しての旅、おいぼれの私には難渋でございましたが、一晩でも湯治が出来ましたら元気が出ることでございましょう」
 猿ヶ京と云われているだけにこの辺には猿が多く、それが木の枝や藪の蔭などから、この人たちを眺めていた。丘をへだてた竹叢のほとりから、老鶯の啼き音が聞こえて来た。
「痛い! ま、どうしてこう痛むのだろう!」
 女は駕籠の中で突っ伏した。
「駕籠屋、桔梗屋へやれ」
 と武士は、あわてたように云った。

 お蘭は、月を越すと、相思の仲の、渋川宿の旅舎、布施屋の長男、進一のもとへ輿入ることになっていた。今夜も彼女は新婚の日の楽しさを胸に描きながら、帳場格子の中で帳面を調べている父親の横へ坐り、縫い物の針を動かしていた。結い立ての島田が、行燈の灯に艶々しく光り、くくり頤の愛くるしい顔には、幸福そうな…

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