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純真
じゅんしん |
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作品ID | 4358 |
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著者 | 太宰 治 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「太宰治全集 10」 筑摩書房 1990(平成2)年12月25日 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2002-12-11 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 1 ページ(500字/頁で計算) |
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「純真」なんて概念は、ひよつとしたら、アメリカ生活あたりにそのお手本があつたのかも知れない。たとへば、何々学院の何々女史とでもいつたやうな者が「子供の純真性は尊い」などと甚だあいまい模糊たる事を憂ひ顔で言つて歎息して、それを女史のお弟子の婦人がそのまま信奉して自分の亭主に訴へる。亭主はあまく、いいとしをして口髭なんかを生やしてゐながら「うむ、子供の純真性は大事だ」などと騒ぐ。親馬鹿といふものに酷似してゐる。いい図ではない。
日本には「誠」といふ倫理はあつても、「純真」なんて概念は無かつた。人が「純真」と銘打つてゐるものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴つたりしてゐる。こんな「純真」のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼に似てゐる。どうしても倫理の訓練は必要である。
子供から冷い母だと言はれてゐるその母を見ると、たいていそれはいいお母さんだ。子供の頃に苦労して、それがその人のために悪い結果になつたといふ例は聞かない。人間は、子供の時から、どうしたつて悲しい思ひをしなければならぬものだ。