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作品ID | 43586 |
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著者 | 国枝 史郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「妖異全集」 桃源社 1975(昭和50)年9月25日 |
初出 | 「ポケット」1926(大正15)年3月 |
入力者 | 阿和泉拓 |
校正者 | 小林繁雄、門田裕志 |
公開 / 更新 | 2005-01-09 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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一
時は春、梅の盛り、所は信州諏訪湖畔。
そこに一軒の掛茶屋があった。
ヌッと這入って来た武士がある。野袴に深編笠、金銀こしらえの立派な大小、グイと鉄扇を握っている、足の配り、体のこなし、将しく武道では入神者。
「よい天気だな、茶を所望する」
トンと腰を置台へかけた。物やわらかい声の中に、凛として犯しがたい所がある。万事物腰鷹揚である。立派な身分に相違ない。大旗本の遊山旅、そんなようなところがある。
「へい、これはいらっしゃいまし」
茶店の婆さんは頭を下げた。で、恭しく渋茶を出した。
ゆっくりと取り上げて笠の中、しずかに喉をうるおしたが、その手の白さ、滑らかさ、婦人の繊手さながらである。
茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。
周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
富士の上漕ぐあまの釣船
西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。
が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつるのである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。
水に突き出た高島城、四万石の小大名ながら、諏訪家は仲々の家柄であった。石垣が湖面にうつっている。
「うむ、いいな、よい景色だ」
武士は惚々と眺め入った。時刻は真昼春日喜々、陽炎が雪消の地面から立ち、チラチラ光って空へ上る。だが山々は真白である。ほんの手近の所まで、雪がつもっているのである。
思い出す木曽や四月の桜狩。
これは所謂翁の句だ。翁の句としては旨くない。だが信州の木曽なるものが、いかに寒いかということが、此一句で例証はされる。昔の四月は今の五月、五月に桜狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。
侍は婆さんへ話しかけた。
「話はないかな? 面白い話は?」
「へえへえ」
と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。
「へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……」
「無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……」
こう云った時、手近の所で、ドボーンという水音がした。
侍は其方へ眼をやった。
と、眼下の湖水の中に、老人が一人立泳ぎをしていた。
寒い季節の水泳! まあこれは可いとしても、その老人が打ち見た所、八十か九十か見当が付かない。そんな老齢な老人が、泳いでいるに至っては、鳥渡びっくりせざるを得ない。
「信州人は我慢強いというが、いや何うも実に偉いものだ」
侍は感心してじっと見入った。
ところが老人の泳ぎ方であるが、洵に奇態な…