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英彦山に登る
ひこさんにのぼる
作品ID43592
著者杉田 久女
文字遣い新字新仮名
底本 「杉田久女随筆集」 講談社文芸文庫、講談社
2003(平成15)年6月10日
入力者杉田弘晃
校正者小林繁雄
公開 / 更新2004-12-18 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は今年英彦山に五六度登った。
 或人々は彦山はつまらぬ山だという。
 成程銅の大鳥居から四十二丁の上宮迄は樹海の中を登りつめるので、見はらしはなし、谿流は添わず、大英彦全体を眺める事の出来ない凹凸の多い山なので、ひととおりの登山丈では、一向変化のないつまらぬ山と思えるのもむりはない。
 だが、彦山に一夏を過して、古老から彦山伝説のかずかずをきかせられ、或は絶頂の三山を高嶺づたいによじ、或は豊前坊から北岳の嶮をよじ、或は南岳の岸壁を下りて妙義にも比すべき巨岩の林立を谷間に仰ぎ等した私は、彦山というものにいつか異常な興味と親しみを見出す様になってしまった。
 彦山には雲仙程の雄大も、国際的なハイカラ味も近代的な設備もない。彦山は天狗の出そうな感じ、怪奇な伝説の山である。彦山を代表するものは山伏道と、かの平民毛谷村六助とである。彦山権現の御加護によってかたき討ちの助太刀をした六助の姿。まずこんなものの古くさい匂いが英彦山のかもす空気であろう。
 三千八百坊が伽藍をつらねていたという名高い霊場も今はおとろえ切って、わずかに山腹の石段町に百余坊。それは皆山伏の末えいで、旅館になり、農になり或は葛根をほってたつきとしている。山坊の跡は石段が峰々谷々に今尚みちていて、田となり畠となり、全村には筧が縦横にかけわたされてそうそうのねをたてている。
 さて私は彦山へはいつも大抵一人で登るのだった。
 奉幣殿の上からは奥深い樹海の道で、すぐ目の前に見えていた遍路たちもいつか木隠れに遠ざかってしまうと、全くの無人境を私は一歩々々孤りで辿るのである。
 前を見ても横を見ても杉の立木ばかり。めまぐるしい文化と騒音とにとりまかれていきている息づまる様な人間界の圧迫感もここではなく、大自然の深い呼吸の中に絶対の! 孤独感を味わう。だが彦山を歩いている時の私は、何のくらさも淋しさもない。魂の静かさが、天地と共にぴたりとふれあっている。自然のふところに抱かるる和らぎ、じつに爽快な孤独の心地なのである。ただもう澄みきった心地で、霧をながめ、鳥のねをきき、或は路傍の高山植物の美しさにみとれ、或は地上の落葉のいろいろに目を転じつつ一歩々々とよじ登ってゆく。こうした山中の体験の楽しさに二度三度と案内しった同じ山へ幾度も私は魅せられるように登って見た。だがさすがに呑気な其私も、十一月はじめ只ひとりで英彦へ登った時にはいささか閉口した。
 山上の紅葉はもう散ってしまっていたので、登山客は殆どなく、その日の正午大鳥居で自動車を下りたものはたった私一人だった。いつもの通り奉幣殿上のくらい杉木立にさしかかった時には、どういうものか、女一人で、人気もない山道を登ってゆくのはあんまり大胆な、とつい気後れがし出すと、坂の中途で行ったりかえったり、立ちすくんでしまった。ぶきみな無人の静寂。深山の精といった感じがひし…

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