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![]() あいじんとえんじん |
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作品ID | 43605 |
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著者 | 宮原 晃一郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「惜しみなく愛は奪う」 角川文庫、角川書店 1969(昭和44)年1月30日改版 |
初出 | 「新潮」1920(大正9)年8月 |
入力者 | 鈴木厚司 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2008-04-15 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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有島武郎君の「惜みなく愛は奪ふ」は出版されるや否や非常な売れ行きであるさうな。しかし売れ行きといふことが直にその本の真価を示すものではないと同時に、売れ行く本は直に俗受けのものと独断して、文壇の正系(?)が之を無視するのはよくないことだ。過般有島君の芸術を通じてその生活を一般が云々することについて、中央文学に一寸書いた時、「三部曲」の批評が出なかつたことを指摘して置いたが、此本の「後書」を見ると、矢張りあの書に対する批評は賀川氏ものゝみが只一つ公にされたつきりであつたさうな。自分は武郎君の門下でもなければ、乾分でもないのだから、敢て阿諛をつかつて彼是言はねばならぬ義務は持たぬが、当然問題となるべき「三部曲」の批評が一つも文学雑誌――少なくとも文芸をその要素の一つとする雑誌や新聞に、殆ど一言半句ものせられなかつた不公正に対して、自分は親友としては勿論、仮りに無関係な立場にある人としても非常に遺憾とするものである。従つて今度出た「惜みなく愛は奪ふ」は武郎君が五ヶ年の心血を注いで、その思想上の頂点を為すものと言はれてゐるだけに、決して同一の不公正が行はれはすまいと思ひながらも、又一方にはなほその懸念がないでもない。願はくは之は自分の杞憂であつて呉れゝばいゝが。
自分が彼の書を読んだところでは、武郎君はその思想を自我の肯定にまで溯りデカルトの Cognito ergo sum の代りに、Cognosco ergo sum だといつてゐる。併し表現の方法は哲学的の論文ではなく論文の形を借りた詩である。組織されたる思想といふよりも寧ろ生み出された思想といふが適当だ。然らばその生み出された思想とは何かと云へば、それは愛だ。啻に最近五年間といはず、有島君が最初から目指してきた、又総て武郎君の生命活動の主動を為した愛が、此処にその全我の大肯定の下に、自らを確立したのである。武郎君の愛なるものゝ本質が何であるか、惜みなく奪ふ愛そのものである主我は他の多くの同様な主我と如何に対立共存し得られるか、武郎君の見るところ、説くところ、信ずるところに対してきつといろ/\な意見が発表せられるであらうし、又さういふことを論じ合ふのは、下らぬ揚足とりや、与太話よりも、ズツトましであるから、大なる期待を以て自分は観てゐるのである。
然し自分は此処に「惜みなく愛は奪ふ」の批評をする積りでもなければ、武郎君の人生観を彼是言ふものでもない。只之を所縁としてつく/″\と感じたことを述べてみたいのである。
他人のことを言ふ資格のない私は矢張り自分のことを言ふ。私は「惜みなく愛は奪ふ」を読んで、今更に自分の生き永らへてゐることを奇怪に、恥辱に、又恐ろしくさへ思つた。一体自分は考へてみると善にしろ、悪にしろさう大した桁外づれではない。平たく言へば凡骨だ。君は立派な人格の所有者だなんかと、過つて言はれで…