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恐怖について
きょうふについて
作品ID43631
著者海野 十三
文字遣い旧字旧仮名
底本 「海野十三メモリアル・ブック」 先鋭疾風社
2000(平成12)年5月17日
初出「ぷろふいる」1934(昭和9)年5月号
入力者田中哲郎
校正者土屋隆
公開 / 更新2005-01-26 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 恐怖なんて、無くもがなである。
 ――と片づけてしまふ人は、話にならない。恐怖は人間の神經を刺戟することが大きい。ひどい場合は、その場に立ち竦んで心臟痲痺を起したり、或ひは一瞬にして頭髮悉く白くなつて白髮鬼となつたりする。そんな恐怖に自分自身が襲はれることはかなはんが、さういふ恐怖がこの世にあることを聽くのは極めて興味深い。探偵小説が喜ばれる一つの原因は、恐怖といふものが盛られてゐることに在る。
 探偵小説を好む私として、恐怖に魅力を感ずるのは、當然のことであらう。今日は一つ、平生私の感じてゐる恐怖の實例をすこし拾つて、同好の諸君に捧げようと思ふ。
 私は踏切を通ることが恐しい。うちの近所には、番人の居ない踏切があつて、よく子供が轢き殺され、「魔の踏切」などと新聞に書きたてられたものである。あすこへ行き掛ると、列車が風を切つて飛んできて、目と鼻との間を轟々と行き過ぎることがある。列車が通過してから、その光つてゐるレールを跨ぐときに、何とも名状し難い戰慄を覺える。もしも自分の眼が狂つてゐて、列車が見えないのだつたらどうだらう。かう跨いだ拍子に、自分は轢き殺されてゐるのだ。人間といふものは、死んでも、死んだとは氣がつかないものだといふ話を聞いてゐるので、レールを跨ぎ終へたと思つても安心ならない。こんな風に恐怖をもつて踏切を渡るのは、私一人なのだらうか。
 子供を抱いて、ビルデイングの屋上へ上つたことがある。最初はたしか淺草の富士館だと思つた。上つてみると館内の賑かさに比べて、屋上は人一人ゐないのである。下を覗いてみると、通行の人の頭ばかりが見える。舖道までは大變遠い。私は怪物重力に急に引張られる氣配を感じた。そのとき私の腕の中にゐた子供が、無心で私の顏を叩いた。ゴム毬のやうに輕い子供である。私は突然、腕を伸ばして子供をポイと下に墜としてみたい衝動に襲はれた。
「これは、いけない!」
 私は一生懸命に、自分自身を叱つた。しかし怪物重力は私にのりうつつて、(早く子供を下に抛げろ!)と誘ふ。私は慄然として恐怖に襲はれた。もつと遊んでゐたいと子供が泣きだすのも構はず、夢中で梯子段の方へ退却していつた。それ以來、子供を連れてゐるときは、屋上へのぼらないことにしてゐる。
 夢の中に見る恐怖のうち、特に恐ろしい光景が二つある。一つは、空をみてゐると、太陽が急に二つに殖え、アレヨ/\と見てゐる間に三つにも四つにも殖えてゆくのをみるときだ。そんなときの太陽は、いつも光を失つて、まるで朱盆のやうな色をしてゐる。野も山も、いつの間にか丸坊主になり、プス/\と冷い水蒸氣が立ちのぼつてくる。世界の終りだ! 私はビツシヨリ寢汗をかいて、目が醒める。
 もう一つは、フロイド先生の御厄介ものだが、洪水の夢をみるときだ。雨は暗い空からジヤン/\[#「ジヤン/\」は底本では「シヤン/\」]降つて…

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