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犬を連れた奥さん
いぬをつれたおくさん
作品ID43644
原題DAMA S SOBACHKOI
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「可愛い女・犬を連れた奥さん」 岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年10月11日
入力者佐野良二
校正者阿部哲也
公開 / 更新2008-01-04 / 2014-09-21
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 海岸通りに新しい顔が現われたという噂であった――犬を連れた奥さんが。ドミートリイ・ドミートリチ・グーロフは、*ヤールタに来てからもう二週間になり、この土地にも慣れたので、やはりそろそろ新しい顔に興味を持ちだした。ヴェルネ喫茶店に坐っていると、海岸通りを若い奥さんの通って行くのが見えた。小柄な薄色髪の婦人で、ベレ帽をかぶっている。あとからスピッツ種の白い小犬が駈けて行った。
 それからも彼は、市立公園や辻の広場で、日に幾度となくその人に出逢った。彼女は一人っきりで、いつ見ても同じベレをかぶり、白いスピッツ犬を連れて散歩していた。誰ひとり彼女の身許を知った人はなく、ただ簡単に『犬を連れた奥さん』と呼んでいた。
『あの女が良人も知合いも連れずに来てるのなら』とグーロフは胸算用をするのだった、『ひとつ付き合ってみるのも悪くはないな』
 彼はまだ四十の声も聞かないのに、十二になる娘が一人と、中学に通っている息子が二人あった。妻を当てがわれたのが早く、まだ彼が大学の二年の頃の話だったから、今では妻は彼より一倍半も老けて見えた。背の高い眉毛の濃い女で、一本気で、お高くとまって、がっちりして、おまけに自ら称するところによると知的な婦人だった。なかなかの読書家で、手紙も改良仮名遣いで押し通し、良人のこともドミートリイと呼ばずにヂミートリイと呼ぶといった塩梅式だった。いっぽう彼の方では、心ひそかに妻のことを、浅薄で料簡の狭い野暮な奴だと思って、煙たがって家に居つかなかった。ほかに女を拵えだしたのももう大分前からのことで、それも相当たび重なっていた。多分そのせいだったろうが、女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――
「低級な人種ですよ!」
 さんざ苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。いやそれのみか、相手が女なら黙っていてさえ気が楽だった。いったい彼の風貌や性格には、つまり押しなべて彼の生まれつきには、何かしら捕捉しがたい魅力があって、それが女の気を惹いたり、女を誘い寄せたりするのだった。彼もそれは承知の上だったが、いっぽう彼の方でもやはり、何かの力に牽かれて女の方へおびき寄せられるのであった。
 いったい男女の関係というものは、初めのうちこそ生活の単調を小気味よく破ってくれもし、ほんのちょいとした微笑ましいエピソードぐらいに見えるけれど、まっとうな人間――ことにそれ…

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