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死屍を食う男
しかばねをくうおとこ |
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作品ID | 43649 |
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著者 | 葉山 嘉樹 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「ひとりで夜読むな」 角川ホラー文庫、角川書店 1977(昭和52)年10月15日 |
初出 | 「新青年」1927(昭和2)年4月号 |
入力者 | 網迫、土屋隆 |
校正者 | 山本弘子 |
公開 / 更新 | 2008-02-16 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 16 ページ(500字/頁で計算) |
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いろんなことを知らないほうがいい、と思われることがあなた方にもよくあるでしょう。
フト、新聞の「その日の運勢」などに眼がつく。自分が七赤だか八白だかまるっきり知らなければ文句はないが、自分は二黒だと知っていれば、旅行や、金談はいけない、などとあると、構わない、やっつけはするが、どこか心の隅のほうにそいつが、しつっこくくっついている。
「あそこの家の屋根からは、毎晩人魂が飛ぶ。見た事があるかい?」
そうなると、子供や臆病な男は夜になるとそこを通らない。
このくらいのことはなんでもない。命をとられるほどのことはないから。
だが、見たため、知ったために命を落とす人が多くある。その一つの話を書いてみましょう。
その学校は、昔は藩の学校だった。明治の維新後県立の中学に変わった。その時分には県下に二つしか中学がなかったので、その中学もすばらしく大きい校舎と、兵営のような寄宿舎とを持つほど膨張した。
中学は山の中にあった。運動場は代々木の練兵場ほど広くて、一方は県社○○○神社に続いており、一方は聖徳太子の建立にかかるといわれる国分寺に続いていた。そしてまた一方は湖になっていて毎年一人ずつ、その中学の生徒が溺死するならわしになっていた。
その湖の岸の北側には屠殺場があって、南側には墓地があった。
学問は静かにしなけれゃいけない。ことの標本ででもあるように、学校は静寂な境に立っていた。
おまけに、明治が大正に変わろうとする時になると、その中学のある村が、栓を抜いた風呂桶の水のように人口が減り始めた。残っている者は旧藩の士族で、いくらかの恩給をもらっている廃吏ばかりになった。
なぜかなら、その村は、殿様が追い詰められた時に、逃げ込んで無理にこしらえた山中の一村であったから、なんにも産業というものがなかった。
で、中学の存在によって繁栄を引き止めようとしたが、困ったことには中学がその地方十里以内の地域に一度に七つも創立された。
だいたい今まで中学が少な過ぎたために、県で立てたのが二つ、その当時、衆議院議員選挙の猛烈な競争があったが、一人の立候補が、石炭色の巨万の金を投じて、ほとんどありとあらゆる村に中学を寄付したその数が五つ。
こんなわけで、今まで七人も一つ部屋にいた寄宿生が、一度に二人か三人かに減ってしまった。
その一つの部屋に、深谷というのと、安岡と呼ばれる卒業期の五年生がいた。
もちろん、部屋の窓の外は松林であった。松の梢を越して国分寺の五重の塔が、日の光、月の光に見渡された。
人数に比べて部屋の数が多過ぎるので、寄宿舎は階上を自習室にあて、階下を寝室にあててあった。どちらも二十畳ほど敷ける木造西洋風に造ってあって、二人では、少々淋しすぎた。が、深谷も安岡も、それを口に出して訴えるのには血気盛んに過ぎた。
それどころではない、深谷はでき…