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一週一夜物語
いっしゅういちやものがたり |
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作品ID | 43677 |
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著者 | 小栗 虫太郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「潜航艇「鷹の城」」 現代教養文庫、社会思想社 1977(昭和52)年12月15日 |
初出 | 「新青年」博文館、1938(昭和13)年8月 |
入力者 | ロクス・ソルス |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2008-11-03 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 19 ページ(500字/頁で計算) |
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一、大人 O'Grie
僕は、「実話」というのが大の嫌いだから、ここには本当のことを書く。
というものの、どうもこれが難題なので、弱る。作らず、嘘でなく、じっさい僕が聴いた他人の告白なんて――よくよく天邪鬼でないかぎり、いえた芸ではないと思う。
とにかく、これはいわゆる実話ではない。あくまで、僕が経験し、じっさいに聴いた話である。
で、冒頭に、僕の経歴の一部を明らかにする。これまで、経歴不明の神秘性がある――とかなんとか云われるのは心外であったが、この機に残らずぶちまけてサバサバとしてしまいたい。
それは、中学を出て一年遊び、翌大正八年五月から十一年二月まで、横浜山下町一五二番地、メーナード・エス・ジェソップ商会というのに勤めていた。この店は、ブロンズ扉や、ボード・ジョインターや特殊錠、欄間調整器などの建築金具を輸入し、輸出のほうは、印度、蘭印方面へ日本雑貨を向けていた。もちろん僕は雑貨掛りのほうであった。
ところが、大正十年十一月九日、年に一度は、顧客廻りに出かけるジェソップ氏の伴をして、はじめて北回帰線を越えカルカッタに上陸した。
印度だ。
頭被、綿布、Maharajah の国だ。僕は、象に乗り蛇使いを見、Lingam の、散在する印度教寺院を見歩いた。しかし、そのバトナやカルカッタにはなんの物語もない。それから、汽車で南行、中部印度のプーリという町にきてはじめてこの話が起る。
そこの宿は、ホテル「風の宮」という洒落た名であったが、部屋は、Apadravya という裏町に向いて汚い。
露台が、重なり合っている狭くるしい通りは、また、更紗や麻布の日覆いでしたの土が見えない。しかし、夜は美しい。更紗を洩れる灯、昼間は気付かなかった露台の影絵、パタンやブルマンの喧囂たる取引は、さながら、往時バグダッドの繁栄そのものである。
平太鼓が聴える……。それを子守唄に、寝ればまた「一千一夜物語」を夢みる。バクストの装置、カルサヴィナが踊るシェヘラザーデの陽炎。まるでそれは、僕が Haroun al Raschid で、ここへ彷徨い着いたようであった。
ところが、そうして滞在三日目の夕のことである。
窓からみると、砂堤の蔭に首絞め台のようなものが見える。それが、最初の日から気になっていたので、ジェソップ氏を誘い散歩がてら出かけていった。が、側へゆくと、それは Masula という名の、車井戸だったのだ(この Masula というのは、あるいはこの地方の小舟の名であったかもしれぬ。いずれにせよ、いまは時経て記憶に定かでなし)。
水牛が、釣瓶縄を引くと、絞め殺されるような音を立てる。陽は落ちんとして、マハナディ三角洲はくらい靄のしたにあった。
するとそれから、騾をつないであるアカシヤのしたまで来ると、とたんに、そばの草叢がガサガサっと動…