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ピークハンティングに帰れ
ピークハンティングにかえれ
作品ID43683
著者松濤 明
文字遣い新字新仮名
底本 「風雪のビバーク」 二見書房
1971(昭和46)年1月12日
入力者ゼファー生
校正者門田裕志
公開 / 更新2005-03-15 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 スポーツアルピニズムは登山界を風靡している。登山といえばまずスポーツ登山のことであり、国内の登山はもとより、未踏のヒマラヤへのエクスペディションすらこの範疇で行なわれようとする勢いである。事実、登山行動にはスポーツ的感興が常に伴うものであるが、それがわれわれの時代感情にマッチしたところに、スポーツ登山今日の隆盛は根ざしているといえよう。
 スポーツ登山の眼目はスポーツ的感興の意識的追求である。それを登山の枠内で行なうというのである。すなわち、内容的スポーツであり、形式的には登山である。この構成が本来のスポーツ登山を規定する。ところが、その内容としてのスポーツ性のみに捉われて、近来ややもすれば登山という形式を逸脱しがちな傾向が認められる。たまたま見受けられる「頂きを度外視した」ルートハンティングがその好例である。「頂きはもはや何ものでもなくなった」一部のスポーツアルピニストたちはそう言って頂きの没落を唱える。「われわれの求めるものは山の手強さであり、頂きよりはむしろ側面である」彼らの考える山はとかく五色の千代紙を三角に扱ったようなものであることが多い。下辺も頂点も等しく紙であることには変りはない。そして彼らは――たとえば――赤いところを登りたがる。合理主義者である彼らは無駄をはぶく。赤いところから赤いところへ、なろうことならば赤いところだけ通って歩こうとする。頂きなどはたいてい赤くないから一顧も与えられない。その手前から戻ってくるか、さもなければ捲いてしまう。これに反して赤いところならば、どんなところでも見逃さない。河原に転がっている大岩や、藪に埋もれた巨たる岩場や、まかり間違えば大都会のビルや石垣さえ登りかねない。
 こういう態度がスポーツ的でない、ということはできないであろう。だが少なくとも登山的でないことだけは確かである。今日のわれわれの観念からすれば、羚羊撃ちや地質探査は登山と呼ばれない。しかしそれは猟師や鉱山師が谷から谷を探り歩いたり、山の腹を捲いて歩いたりする場合のことであって、もし彼らが――本意ならずも――エベレストの頂上に立ったとすればやはりわれわれはそれをエベレストの登山と認めるであろう。スポーツの場合も同様であって、沢を遡行して登りつめたところから漫然と尾根を下ったり、山の裾の岩壁を上り下りすることが、何故に登山と言えるであろうか。
 それでもスポーツであればよいではないか、という主張もあろう。いかにもそういう行為がスポーツでないわけはない。だが、スポーツであるにしても、なんと末梢感覚的、病的なスポーツであろう。芯からの逞しさや、均衡のとれた豊円さはとても感じられない。そしてこれで満足させられるようなスポーツ感情はなんと病的なものであろう。多少穿ち過ぎた推測かも知れないが、「他人がどう登ったから、自分はどう登る」といった競争意識、登山技術…

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