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『新潮』十月新人号小説評
『しんちょう』じゅうがつしんじんごうしょうせつひょう
作品ID43693
著者梶井 基次郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「梶井基次郎全集 第一卷」 筑摩書房
1999(平成11)年11月10日
初出「青空」1926(大正15)年11月号
入力者土屋隆
校正者高柳典子
公開 / 更新2005-05-24 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     子を失ふ話 (木村庄三郎氏)

 書かれてゐるのは優れた個人でもない、ただあり來りの人間である。それらが不自然な關係の下に抑壓された本能を解放しようとして苦しむ。作者は客觀的な態度で個々の人物に即し個々の場面を追ひつゝ書き進んでゐる。作者は人物の氣持や場面を近くに引付けてヴイヴイツドに書くことに長じてゐる人であるが、この作品ではそれを引き離して書いてゐる。そしてその手法が澄んでゐるためか「人間の持つ悲しさ」といふやうなものが背後に響いてゐる。どうにもならないといふ感じである。恐らくこの作品はこれでおしまひなのではなからうと思はれる。どう見てもあそこで完結させることは出來ない。また小さいことではあるが「けちな放蕩」と書いてある。けちなといふやうな價値感情を含んだ言葉はこの作品の緊りを傷けるものである。この作品に於て私は作者の新なる沈潛を感じる。そしてそれはいゝ結果になつてあらはれてゐる。が、それは在來のものゝ綜合であり完成であつて、新しい境地へは踏出してゐない。在來の氏に感じてゐた私の不滿は、だからまだ滿されてはゐない。この完成が終れば氏はその方へ出て行くのであらう。私はそれを期待する。

     N監獄懲罰日誌 (林房雄氏)

 林氏に對する私の豫備知識は貧弱である。いつかの新小説にのつたものしか讀んでゐない。また文藝戰線の人々やその文學論にも最近の關心である。そんなことがわかつてからとも思ふが、まあ思つたまゝを云ふ。
 伯父の急激な對蹠的な轉向を輪廓づけた、その圖形が妥當であるかないか、それは問題にしようとは思はない。たゞこの圖形はそれ自身が立派な意義を持つものであることを認める。然しこの圖形が強い力で迫つて來るためにはもつと肉付けが必要であると思ふ。末尾の言葉で作者もそれを認めてゐるやうに思へるが、それ以上作者が美しい放浪者の心とか懷疑者の心とか金鑛とか漠然とした言葉を用ひてゐるためなのではなからうか。
 懲罰日誌そのものゝなかには囚人の悲慘がユーモアに包まれて寫されてゐる。そのユーモアの一つは「錆びついた心」を持つた獄吏の戲畫的な存在である。も一つは犯行者の犯行なるものである。然しそのユーモラスな效果が消えて行つたあと心に迫つて來る重苦しい眞實がある。ともかく私は懲罰日誌には心を打たれた。所々自然科學の言葉が使はれてゐたり、一度云ひ表したことを重ねて使つて效果を深めたり、作者の文體は知的な整つた感じを持つてゐる。偏した味ではなく正統な立派なところがある。そして、それは作者の文學的意圖に合したものであらうことが推察される。

     アルバム (淺見淵氏)

 平板な嫌ひはあるがその落ちついた筆致は作者がともかくあるところまでゆきついた人であることを思はせる。朝に出たときより幾分の削除が行はれてゐるやうに思ふが、とにかくこの作品は書き拔いた…

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