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踊る地平線
おどるちへいせん
作品ID4370
副題06 ノウトルダムの妖怪
06 ノウトルダムのようかい
著者谷 譲次
文字遣い新字新仮名
底本 「踊る地平線(上)」 岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年10月15日
入力者tatsuki
校正者米田進
公開 / 更新2003-01-12 / 2014-09-17
長さの目安約 57 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     1

『馬耳塞からでも逃げて来たかね?』
『はあ。マルセイユから逃げてきました。』
『船は辛いだろうな。なに丸かね?』
『日本船じゃありません。英吉利です。』
『英船か。食いものが非道えからね。』
『食い物がひでえです。』
『しかしお前、そんなことを言って巴里へ潜り込んでどうする? 領事館へ泣きついて、移民送還ででも帰るか。こいつも気が利かねえな。』
『そいつも気がきかないです。何とかして巴里で一旗上げたいと思うんですが――故里にあおふくろもいますし――。』
『どこかね? 国は。』
『鹿児島です。』
『おれあ下谷だ。もっとも子供の時に出たきり帰らねえんだが――しんさいはひどかったろうなあ!』
『震災はひどかったです。わたしも知らないんですが――。』
『AH! OUI! 新聞で見たよ。』
 いやに星のちかちかするPARISの夜、聖ミシェル街の酒場、大入繁盛のLA・TOTOの一卓で、数十年来この巴里の「不鮮明な隅」に巣をくっている大親分、日本老人アンリ・アラキと、親分のいわゆる「脱走いぎりす船員」たるジョウジ・タニイとが、こうして先刻からボルドオ赤――一九二八年醸造――の半壜をなかにすっかり饒舌りこんでいるのだ。
 何からどう話を持って行っていいか――ま、とにかく、いやに星がちかちかしてタキシの咆哮する晩だったが、カラアを拒絶して一ばん汚ない古服を着用した私――ジョウジ・タニイ――が、多分の冒険意識をもって徹宵巴里の裏町から裏まちをうろつくつもりで、ちかちかする星とタキシの――に追われ追われて真夜中の二時ごろ、このサ・ミシェル――サン・ミシェルなんだが巴里訛はNが鼻へ抜けるためほんとうはこうしか聞えない――の「ラ・トト」へ紛れ込んで、国籍不明の「巴里の影」の一つになりすました気で大いに無頼な自己陶酔にひたっている最中、先方にしてみれば何もそこを狙ったわけじゃあるまいが、まったく狙撃されたように飛び上ったほど――つまり私はびっくりしたんだが、いきなりしゃ嗄れ声の日本言葉が私の耳を打ったのである。
『やあ! 一人かね?』
 というのだ。断っておくが、この場合、その質問者は何も特に当方における同伴――男女いずれを問わず――の有無に関して興味を感じてるわけではなく、第一、ひとりか二人か見れあ直ぐ判るんだし、これは、言わばただ、おや! こいつあ何国の人間だろう? お国者かな? 一つ探りを入れてやれ、と言ったくらいの外交的言辞に過ぎないのだ。これでむっつり黙り込んでいると、何でえ、支那か、ということになって、鑑別の目的は完全に達せられる。じっさい頭から「お前は日本人だろう?」では放浪紳士に対して露骨に失するから、そこでこの挨拶のような挨拶でないような、ばかに親密な質疑の形式がいつの世からか発見されたもので、これは私たち世界無宿のにっぽん人間における一つの「仁義」で…

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