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踊る地平線
おどるちへいせん
作品ID4374
副題10 長靴の春
10 ながぐつのはる
著者谷 譲次
文字遣い新字新仮名
底本 「踊る地平線(下)」 岩波文庫、岩波書店
1999(平成11)年11月16日
入力者tatsuki
校正者米田進
公開 / 更新2003-01-20 / 2014-09-17
長さの目安約 61 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     1

 反照電熱機のような、香橙色の真ん円な夕陽を、地中海が受け取って飲み込んだ。同時に、いろいろの鳥が一せいに鳴き出して、白楊の林が急に寒くなった。私は、それらの現象を、すこしも自分に関係のないものとして、待合室の窓から眺めていた。その窓硝子には、若い春の外気が、繊細な花模様を咲かせていた。
 そこは、ふらんすと伊太利の国境駅のヴァンテミイユだった。
 小停車場は、埃塵をかぶって白かった。そして、油灯のくすぶる紫いろの隅々に、貧しいトランクの山脈と一しょに、この産業の自由流動と、それによる同色化傾向の濃厚な近代社会に、何とかして無理にも史的境界と、その尊厳を保とうとする国家なるものの喜劇的重大性が、無関心な流行者の哀愁にまで立ち罩めていた。それは私に、戦線のにおいをさえ嗅がせた。伊太利と仏蘭西の二つの国家によって、そこの空気は二倍の比重を持っていたからだ。どこかバルチック海に沿う新興共和国の大統領護身兵のような、考え抜いた制服の、一人の鼻の尖った青年が、ふらんす側の車窓から、玄妙な言葉で私の荷物を強奪した。手荷物運搬人だった。それから、退屈な国境の儀式が開始された。
 旅券。仏蘭西の出国スタンプ。写真と顔の比較。亡命客のように陰鬱な、あわただしい旅行者の行列。一人ずつ、小さな、それでいて何と多くの議論のあったであろう屋内柵を過ぎると、もうそこで、私達は仏蘭西から伊太利へ這入ったのだった。
 憲兵。警官。国境防備軍の歩哨。かれは、一本の羽毛を飾った狩猟帽をかぶって、自分の身長よりも高い銃剣で、新入国者にファシスト的な無言の警告を与うべく努力していた。真っ暗だった。停電だったのだ。また旅券。伊太利入国スタンプ。質問の大暴風雨、つぎは税関である。
 税関の役人は、貝殻のような眼をして私を白眼んだ。そうすることが彼の仕事なのだ。私は、用意の粉末微笑を取り出して、彼の上に振りかけた。無事に通関したとき、そばの亜米利加の老婆が私にささやいた。
『伊太利人は、同じ拉丁系民族のなかでも、他人の所有物に対してあんまり興味を感じないほうに属します。これは非常にいいことです。』
 停電はいつまでも続いた。私は、手探りで廊下を進んだ。そして、向うから黒い影が来るごとに、接吻するほど頬を近づけて、両替所のありかを訊いた。が、彼らはみなこの辺の農民らしく、モンパルナスの珈琲店で仕上げを済ましたはずの私の仏蘭西語は、彼等には通じそうもなかった。その上、停電と乗換と出入国の煩瑣な手続とが、みんなをすっかり逆上させていて、誰も私のために足を停めようとするものはなかった。しかし、両替所は、その二本の蝋燭の灯りで、直ぐに私の前に浮かび上った。何かを、多分この停電を、怒ってるらしい若い女の冷淡な手が、私の法を取り上げて、不思議な伊太利金のリラを抛り出した。
 食堂には、僧院のにおいが冷…

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