えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
前記天満焼
ぜんきてんまやけ |
|
作品ID | 43747 |
---|---|
著者 | 国枝 史郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「国枝史郎伝奇全集 巻5」 未知谷 1993(平成5)年7月20日 |
初出 | 「文芸倶楽部」1927(昭和2)年6月~10月 |
入力者 | 阿和泉拓 |
校正者 | 湯地光弘 |
公開 / 更新 | 2005-07-13 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 101 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
1
ここは大阪天満通の大塩中斎の塾である。
今講義が始まっている。
「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪、張横渠、程明道、程伊川、これらの学説を集成したものが、すなわち朱子の学である。……朱子の学説を要約すれば、洒掃応待の礼よりはじめ、恭敬いやしくも事をなさず、かつ心を静止して、読書して事物を究め、聖賢の域に入れよとある。……がこれでは廻り遠い。人間そうそう永生きはできぬ、百般の事物を究理せぬうちに、一生の幕を下ろすことになろう。容易に聖賢になることはできぬ。……ここに至ってか陸象山、直覚的究理の説を立てた。陸象山云って曰く、――我心は天の与うるもの、万物の理は心内に在り、心内思考一番すれば、一切の理を認識すべしと――ところが陽明先生であるが、その象山の学説よりおこり、心即理、知行合一、致良知説を立てられた。……」
凜々として説いて行く。中斎この時四十三歳、膏ののった男盛りである。
数十人の門弟は襟を正し、粛然として聞いている。咳一つするものがない。
説き去り説き進む中斎の講義……
「虚霊不昧、理具万事出、心外無理、心外無事」
ちょうどこの辺りまで来た時であった、夕陽が消えて宵となった。
「今日の講義はまずこの辺りで……」
云い捨て中斎が立ち上ったので、門弟一同も学堂を出た。
…………
居間に寛いだ大塩中斎は、小間使の持って来た茶を喫し、何か黙然と考えている。怒気と憂色とが顔にあり、思い詰めたような格好である。
すると、その時襖の陰から、
「宇津木矩之丞にございます。ちょっとお話し致したく」
「ああ宇津木か、入っておいで」
現われたのは若侍で、つつましく膝を進めたが、すぐに小声で話し出した。
「いよいよ平野屋では例の物を、江戸へ送るそうでございます」
「ふうんそうか、いよいよ送るか」
「どう致したものでございましょう?」
「そうさな」と中斎は考え込んだ。怒気とそうして憂色とが、いよいよ色濃くなってきた。
「やっぱりこっちへ取り上げることにしよう」
「はい」と云ったが矩之丞の顔には、不安と危惧とが漂っている。
「後世史家が何と申すやら、この点懸念にござります」
「うむ」と云ったが大塩中斎も、苦渋の表情をチラツカせた。
「拙者もそれを危惧ている。と云って目前の餓鬼道を見遁しにしては置けないな」
「先生の御気象と致しましては、御理千万に存ぜられます」
「俺は蔵書を売り払って、二万両の金を手に入れたが、日に日に増える窮民を、救ってやることは不可能だ」
「限りない人数でございますので」
「それで、断行しようと思う」
「はい」と云ったが宇津木矩之丞はやっぱり顔を曇らせている。
「本来けしからぬは徳川幕府じゃ。……その幕府の存在じゃ」と、中斎は日頃の持論の方へ、話の筋を向けだした。
「日本は神国、…